キリストが契約を確証したその一週間は、キリストの洗礼から、ステパノが石打ちにされた際に天の聖所においてキリストが立ち上がった時までの期間を表していた。

しかし彼は、聖霊に満たされて、天をじっと仰ぎ見、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見た。そして言った、「見よ、天が開けており、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。すると彼らは大声で叫び、耳をふさぎ、一斉に彼に襲いかかり、彼を町の外に連れ出して石で打った。証人たちは、自分の着物をサウロという名の若者の足もとに置いた。彼らがステパノを石で打つ中、彼は神に呼ばわって言った。「主イエスよ、わが霊をお受けください」。そして彼はひざまずき、大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに帰さないでください」。こう言って、彼は眠りについた。使徒の働き 7:55-60.

ステパノが石打ちにされ、ミカエルが立ち上がったとき、福音は異邦人のもとへと広がった。なぜなら、それまでは福音はユダヤ人に限られていたからである。

すると天使は言った。「彼は一週[七年]のあいだ、多くの者と契約を確かなものとする。」救い主がその宣教を始めてからの七年間、福音はとくにユダヤ人に宣べ伝えられることになっていた。最初の三年半はキリストご自身によって、その後は使徒たちによって。 「その週の半ばに、彼はいけにえと供え物をやめさせる。」ダニエル書 9:27。紀元31年の春、まことのいけにえであるキリストがカルバリーでささげられた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、いけにえの儀式の神聖さと意義が失われたことが示された。地上のいけにえと供え物が終わるべき時が来たのである。

その一週—七年—は西暦34年に終わった。そして、ステパノの石打ちによって、ユダヤ人はついに福音の拒絶を確定させた。迫害によって各地に散らされた弟子たちは、「至る所で御言葉を宣べ伝えた」(使徒行伝 8:4)。そしてほどなくして、迫害者サウロは回心し、異邦人への使徒パウロとなった。The Desire of Ages, 233.

西暦34年に、聖なる一週(二千五百二十日)が終わり、古代イスラエルは神から離縁され、彼らの猶予期間は完全に終わった。その時点で、契約の拒否と神の御子の十字架刑に対する古代イスラエルへの報いは、神の執行的裁きのもとに置かれた。神は長き忍耐と憐れみによって、エルサレムの滅亡を、西暦66年から70年にかけての包囲と破壊の時まで延期された。

キリストが契約を堅固にされたその一週間を示すダニエル書第9章の聖句は、異教ローマ(来るべき君主)が都と聖所を滅ぼすことも示している。しかし神は、その忍耐深いあわれみによって、古代イスラエルの子らに、彼らの間でキリストと弟子たちが奉仕した七年間のあいだ、福音を聞き、父祖たちがしたように決断を下すための時をお与えになった。

キリストご自身によってエルサレムの滅びが宣告されてからほぼ四十年の間、主はその都と国民に対する裁きを猶予された。福音を拒み、その御子を殺した者たちに対する神の忍耐は実に驚くべきものであった。実を結ばない木のたとえは、ユダヤ民族に対する神の取り扱いを表していた。「切り倒せ。なぜ土地をふさぐのか」(Luke 13:7) という命令はすでに出されていたが、神のあわれみにより、なおしばらくそれは切り倒されずに残された。ユダヤ人の中にはなお多くの者が、キリストの御品性と御業について無知であった。また、子どもたちは、親たちが退けた機会や光にあずかってはいなかった。使徒たちとその仲間の宣教を通して、神は彼らの上に光を輝かせようとしておられた。彼らは、キリストの誕生と生涯においてだけでなく、その死と復活においても、預言がいかに成就したかを見ることを許されるであろう。子どもたちは親の罪のゆえに罪に定められるのではなかった。しかし、親に与えられていたすべての光を知ったうえで、自分たちに与えられたさらなる光を子どもたち自身が退けたときには、彼らは親の罪にあずかる者となり、その不義の分量を満たした。

エルサレムに対する神の長い忍耐は、かえってユダヤ人の悔い改めない頑なさを確定させただけであった。彼らはイエスの弟子たちに対する憎しみと残酷さによって、最後のあわれみの申し出を拒んだ。そこで神は彼らからご自身の保護を取り去り、サタンとその天使たちに対する抑制の力を解除された。こうして、その国は自ら選んだ指導者の支配にゆだねられた。彼らの子らは、悪しき衝動を抑えられるようにしてくれたはずのキリストの恵みを侮って退け、今やその衝動こそが征服者となった。サタンは魂の最も激しく、最も卑しい情念をかき立てた。人々は理性を働かせず、理性の及ぶところを超え、衝動と盲目的な激怒に支配された。彼らの残虐さはサタン的なものとなった。家庭においても国家においても、上から下に至るまで、疑い、ねたみ、憎しみ、争い、反逆、殺害が満ちた。どこにも安全はなかった。友人も親族も互いに裏切り合った。親は子を殺し、子は親を殺した。民の支配者たちは自分自身をも治める力がなかった。制御されない情念が彼らを暴君にした。ユダヤ人は、罪なき神の御子を断罪するために偽りの証言を受け入れた。今や偽りの告発が、彼ら自身の命も危うくした。彼らはその行いによって、長い間こう言ってきたのである。「イスラエルの聖者を、私たちの前から遠ざけよ。」イザヤ30章11節。今やその願いはかなえられた。神への恐れは、もはや彼らを煩わせなかった。サタンが国の頭となり、最高の世俗権力も宗教権威も彼の支配下に置かれた。『大いなる論争』、27、28。

契約の使者として、キリストはまずユダヤ人のみを相手にされた。紀元34年、ステパノが石打ちにされたとき、福音は異邦人へと及び、神による裁きの執行の時が到来した。ただし、神はそのあわれみにより、その時をおよそ四十年間猶予された。

マラキ書3章の成就として、契約の使者であるキリストは、神殿を二度清められた。彼はそれを、当時退けられ離縁されつつあった契約の民のため、またやがて新たな選民となる人々のために特別に設けられた期間に行った。その期間が終わると、神の裁きの執行の時が始まった。バプテスマのヨハネは、キリストが契約を結ばれる新しい選民を起こす働きのために道を備えた使者であった。

二度の神殿清めは、魂という神殿を清めるキリストの働きを示す目に見える教訓であった。マラキ書三章で契約の使者が突然現れるとき、彼は昔の日のような供え物を整えるために、レビの子らを清め、また精錬する。

しかし、だれが彼の来る日に耐えられようか。彼が現れるとき、だれが立っていられようか。彼は精錬する者の火、洗濯する者のせっけんのようだからである。彼は銀を精錬し清める者として座り、レビの子らを清め、金や銀のように彼らを練り清める。こうして、彼らは義にかなったささげ物を主にささげるようになる。すると、ユダとエルサレムのささげ物は、いにしえの日々のように、昔の年月のように、主に喜ばれるものとなる。マラキ 3:2-3。

マラキ書3章と二度の神殿清めは、契約の使者によって成し遂げられるレビの子らの信仰の完成を表している。レビの子らの信仰の完成は、金の精錬によって表されている。

「療養所で何らかの影響力を持つすべての人には、神のみこころに従うこと、自己をへりくだらせること、キリストの御霊の尊い感化に心を開くことがなければならない。火で試された金は、愛と信仰を表している。多くの人はほとんど愛に欠けている。自己満足が彼らの目をくらませ、彼らの大きな必要を見えなくさせている。神へ日ごとに回心し、宗教生活において新しく深い日々の経験を持つことは、絶対に必要である。」『証言』第4巻、558頁。

マラキ書3章と二度の神殿清めは、契約の使者によって成し遂げられる、レビの子らである賢い者たちのうちにおける知識の増し加わりについての理解の完成を表している。レビの子らの完成は、銀の精錬によって象徴されている。

主のことばは純粋なことば。土の炉で試され、七度も精錬された銀のようだ。詩篇 12:6。

契約の使者は、銀や金を精錬するように、レビの子らを清めるはずであった。神のことばこそが人を清める。なぜなら、清められるとは、義とされ、聖められることだからである。

彼らをあなたの真理によって聖めてください。あなたのみことばは真理です。ヨハネ 17:17.

バプテスマのヨハネは、マラキ書3章の最初の成就において契約の使者のために道を備える使者であり、そのことに関する彼のメッセージは四つの側面から成っていた。彼の働きには、契約の使者によって成し遂げられる清めの働きを特定して示すこと、そしてその清めの働きが打ち場を掃き清める行為として表されていることを示すことが含まれていた。彼は、かつて選ばれた民がその時すでに通り越されつつあることを指摘した。また彼は、神の民にラオデキアのメッセージを提示し、彼らの罪と先祖の罪を示した。彼はこれらすべての現実を「来たるべき怒り」という文脈に位置づけた。道を備える使者の働きは、通り越されつつあるその民の教育制度において教育を受けたことのない者による働きを表していた。

主は、バプテスマのヨハネを通して、ご自身のために、主の道を備える使者を起こされた。彼は、罪を戒めこれを糾弾することにおいて、少しもひるむことのない証しを世に担うことになっていた。ルカは、その使命と働きを告げてこう言う。「彼はエリヤの霊と力によって主に先立って行き、父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者を正しい人たちの知恵に立ち帰らせ、こうして主のために備えられた民を整えるのである」(ルカ1:17)。

パリサイ人とサドカイ人の多くがヨハネのバプテスマを受けに来たので、彼は彼らに向かって言った。「まむしの子らよ、来たるべき怒りを逃れるようにと、誰があなたがたに警告したのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。『私たちにはアブラハムが父だ』などと心の中で思ってはならない。言っておくが、神はこの石ころからでもアブラハムの子らを起こすことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。だから、良い実を結ばない木はみな切り倒され、火に投げ込まれる。私は悔い改めのために水であなたがたにバプテスマを授けるが、私の後から来られる方は私よりも力のある方で、私はその方の履物を持つ値打ちもない。その方は聖霊と火とであなたがたにバプテスマを授けられる。その方の手には箕があり、脱穀場を徹底的にきよめて、麦を集めて倉に納め、もみ殻は消えることのない火で焼き尽くす」(マタイ3:7-12)。

ヨハネの声はラッパのように高らかに響いた。彼に与えられた使命は、「わが民にその背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ」(イザヤ 58:1)というものであった。彼は人間的な学識を身につけてはいなかった。神と自然が彼の教師であった。しかし、堕落した国民を悔い改めに召し、古の預言者たちのように自らの声を響かせるだけの大胆さを備え、キリストに先立って道を備える者が必要であった。Selected Messages, book 2, 147, 148.

ウィリアム・ミラーは契約の使者のために道を備えた第二の使者であり、ミラーという人物とその働きはバプテスマのヨハネによって予表されていた。

何千人もの人々がウィリアム・ミラーの宣べ伝えた真理を受け入れるに至り、また神のしもべたちはエリヤの霊と力によって起こされ、そのメッセージを宣べ伝えた。イエスの先駆けであるヨハネのように、この厳粛なメッセージを宣べ伝えた人々は、木の根元に斧を置き、悔い改めにふさわしい実を結ぶよう人々に呼びかけずにはいられないと感じた。『初期の著作』233頁。

キリストの時代の、あれこれと難癖をつけるユダヤ人たちは、メシアについての偽りの教えを信じるように導かれていた。「メシア」とは、ギリシャ語の「キリスト」に当たるヘブライ語で、「油注がれた者」という意味である。

神がイスラエルの子らに遣わした御言葉、すなわちイエス・キリストによって平和を宣べ伝えたもの(彼はすべての者の主である)。この御言葉は、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まり、ユダヤ全土に広められたもので、あなたがたも知っている。すなわち、神がナザレのイエスに聖霊と力によって油を注ぎ、彼は至る所を巡って善を行い、悪魔に虐げられていたすべての人を癒やした。神が彼とともにおられたからである。使徒の働き 10:36-38

「メシア」と「キリスト」は、どちらも「油注がれた者」を意味する。キリストはご自身の洗礼において油注がれたので、厳密には、洗礼を受けるまではメシアでもキリストでもなかった。キリストの洗礼は、1840年8月11日の黙示録第10章の天使の降臨と預言的に符合しており、また、2001年9月11日の黙示録第18章の力ある天使の降臨とも符合している。これら三つの預言的な道標は、後の雨における聖霊の顕現を指し示している。

理屈っぽいユダヤ人たちは、メシアがイスラエルの国が世界を統治する文字通りの地上の王国をもたらすのだという、誤解、すなわち偽りの預言的メッセージに固執していた。それは「平和と繁栄」を約束する偽りのメッセージだった。

ウィリアム・ミラーのメッセージには二つの主要な要素があった。第一は、聖所の清めを指し示す時の預言の適用であり、第二は、プロテスタントが信じがちであった千年期に関するカトリックの解釈を彼が退けたことであった。平和と繁栄の千年とされるその誤った千年期観は、枝葉末節にこだわるユダヤ人が抱いていたメシアの王国に関する誤った見解に体現されていた。

その二人の証人は、「契約の使者」がご自分の宮に突然来られるための備えをする使者の歴史の第三の、そして最後の成就において、「平和と繁栄」を約束する偽りの後の雨のメッセージを指摘している。その偽りの後の雨のメッセージは「平和と安全」のメッセージとして特定されており、これは、「来たるべき怒り」が到来するときに「良い実を結ばない木はみな切り倒され、火に投げ込まれる」と指摘したバプテスマのヨハネのメッセージと対照的である。また、それは、カトリックが教えるような千年の平和は存在しないとミラーが指摘したことによっても表されている。というのも、主が再臨されるとき、その来臨の輝きによって地を滅ぼされるからである。

そして、苦しんでいるあなたがたには、主イエスがその力ある御使いたちを伴って天から現れ、燃える炎の中で、神を知らない者たちや、私たちの主イエス・キリストの福音に従わない者たちに報いを下されるとき、私たちと共に安息が与えられます。彼らは主の御前から、またその御力の栄光から離され、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。テサロニケ人への第二の手紙 1章7-9節。

契約の使者が新たに選ばれた民と契約を結ぶために備えをした最初の二人の使者は、ラオデキアのアドベンチズムの第三世代で打ち立てられた、偽りの「平和と安全」という「後の雨」のメッセージが、第三の災いに表されているイスラムの役割を第四世代のラオデキアのアドベンチズムが認識することを妨げるよう、サタンによって仕組まれたものであることを示している。

レビの子らに代表される者たちのために成し遂げられる清めの過程において、バプテスマのヨハネの後に来る方は、その御手にある扇で自分の床を徹底的に掃き、「清める」ことになっていた。その働きは御言葉によって成し遂げられる。

「『手に箕を持っておられ、打ち場を徹底的に清め、麦を集めて倉に納められる。』マタイ3章12節。これは清めの時の一つであった。真理の言葉によって、もみ殻が麦からふるい分けられていた。戒めを受け入れるにはあまりにも虚栄と独善に満ち、謙遜な生活を受け入れるにはこの世を愛しすぎていたため、多くの者がイエスから離れていった。今もなお多くの人が同じことをしている。今日も魂は、カペナウムの会堂にいたあの弟子たちのように試されている。真理が心に迫ると、自分の生き方が神の御心にかなっていないことが見えてくる。自分自身が全く変えられる必要を悟るが、自分を捨てる務めを引き受けようとはしない。だから、自分の罪が明るみに出ると怒り、弟子たちがイエスから離れたときのように、つまずいて去って行き、『これは聞きにくい言葉だ。だれがそれを聞いていられようか』とつぶやく。」『The Desire of Ages』392頁。

後の雨のメッセージは、ハバクク書2章の「論争」であり、もみ殻と麦を分ける真理の言葉である。その分離は、契約の使者によって成し遂げられる清めである。ミラー派の歴史において、ダニエル書8章14節のメッセージは、最初に挫折したときに清めを生み出し、ハバクク書2章の遅延の時と、マタイ25章の十人の乙女のたとえをもたらした。やがて1844年10月22日に「真夜中の叫び」のメッセージが最終的に成就したとき、それはいっそう大きな清めを生み出した。その時こそ、契約の使者が突然到来し、最後の清めと精錬を始められた。三つの清めとふるい分けのうち最初の二つを通過したその運動は、三つ目に失敗し、1863年にラオデキヤの荒野に送られた。

ミラー派の歴史において、プロテスタントはまず真理の言葉によってふるい分けられ、その後、第三の試練のメッセージが到来したとき、第一の天使の運動自体がふるい分けられた。だが、1798年から1844年までの46年間にミラー派の神殿を築いてきた者たちは、十人の乙女のたとえを完全に成就していたにもかかわらず、1844年10月22日に到来した第三の試練に失敗した。

第一と第二の天使のメッセージのもとで花婿を迎えに出て行った多くの者が、第三の、世に与えられる最後の試練のメッセージを拒んだ。そして最後の呼びかけがなされるときにも、同様の立場が取られるだろう。

「このたとえ話のあらゆる細部は、注意深く研究されるべきである。私たちは、賢い乙女たちか愚かな乙女たちのいずれかに象徴されている。」Review and Herald, 1899年10月31日。

1844年10月22日に第三の天使が到来した際に始まった預言的な歴史は失敗に終わり、その結末は1863年の反乱であった。1850年までにシスター・ホワイトは次のメッセージをしたためた。

主は1月26日に私に一つの幻を与えられた。ここにそれを述べる。私は、神の民の中には愚鈍で眠り込んでいる者がいて、半ば目を覚ましているにすぎず、私たちが今どのような時に生きているのかを悟っていないのを見た。また、「塵払いの刷毛」を持った「男」が入り込んでおり、何人かは掃き払われてしまう危険にさらされていることも見た。私はイエスに、彼らを救い、もうしばらくの間彼らに猶予を与え、彼らに自分たちの恐るべき危険を見させ、永遠に手遅れになってしまう前に備えができるようにしてくださるよう、懇願した。天使は言った、「滅びは激しいつむじ風のようにやって来る。」私は天使に、この世を愛し、自分の財産に執着し、それらから手を切って、霊的な食物の欠乏のために滅びつつある飢えた羊を養うために遣わされる使者たちの道を急がせるために、それらをささげようとしない者たちを、あわれみ、救ってくださるようにと願った。

私は、現在の真理を欠いて死にゆく哀れな魂たちを見、また、真理を信じると公言する者の中に、神の働きを進めるために必要な手段を差し控えることによって彼らを死なせている者もいるのを見た。その光景はあまりにも痛ましく、私は天使に、それを私から取り去ってくださるよう懇願した。私は、神の大義が彼らの財産の一部を求めると、イエスのもとに来た若者のように[マタイ 19:16-22。]彼らが悲しみながら去っていくのを見た。やがて押し寄せる災禍が通り過ぎ、彼らの所有物をことごとく一掃してしまい、そのときには、地上の財を犠牲にして天に宝を積むには遅すぎるであろうことも見た。 レビュー・アンド・ヘラルド、1850年4月1日。

1850年には、塵払いの男はすでに来ていた。1844年10月22日、契約の使者は突然ご自身の宮に来て、レビの子らの汚れを取り除き清める働きを始めた。

次回の記事でこの研究を続けます。

今日、魂は試され吟味されており、多くの者が、キリストを捨てた人々が踏みしめたのと同じ道をたどっている。御言葉によって試されると、彼らは神なる教師を退ける。自らの生活が真理と義に調和していないことで戒められると、彼らは救い主から離れ去り、その決断は、つまずいた弟子たちのそれと同様、二度と覆されることがない。彼らはもはやキリストと共に歩まない。こうして、次の言葉が成就する。――「その手に箕があり、もみ場を徹底的にきれいにして、小麦を集めて倉に納める。」『時代のしるし』1901年5月15日。