2023年7月末、荒野で叫ぶ者の声が、死に絶えて干からびた骨に向かって叫び始めた。これは、ダニエルがアリオクのもとに行き、自分が「奥義」を理解したと告げたことで表されている。ダニエルはハナニヤ、ミシャエル、アザリヤとの関係においてエリヤの使者を表しており、エリヤのメッセージは、神の民がそれを理解しようと、受け入れようと、そうでなかろうと、彼らはすでに呪いのもとにあることを明らかにしている。
今や、祭司たちよ、この戒めはあなたがたのためである。もしあなたがたが聞き従わず、わたしの名に栄光を帰すことを心に留めないなら、わたしはあなたがたの上に呪いを送り、あなたがたの祝福を呪う、と万軍の主は言われる。まことに、あなたがたがそれを心に留めないゆえに、わたしはすでにそれらを呪った。マラキ書 2:1、2。
終わりの日の「祭司」は、ペテロによれば、以前は神の契約の民ではなかった神の契約の民である。彼らは、2001年9月11日に黙示録十八章の力ある御使いが降りてきたときに、「隠された書」を食べた者たちである。しかし、マラキによれば、彼らは呪われている。
もし、あなたがたが主の恵み深さを味わったのなら、人には捨てられたが、神に選ばれ尊い、生ける石であるこの方のもとに来なさい。あなたがたもまた、生ける石として、霊的な家に築き上げられ、聖なる祭司となり、イエス・キリストによって神に受け入れられる霊的ないけにえをささげるためである。だから、聖書にはこう書かれている。「見よ、わたしはシオンに、選ばれ、尊い、隅のかしら石を据える。彼に信頼する者は決して失望することがない。」こうして、信じているあなたがたにとっては、この方は尊い。しかし、不従順な者たちにとっては、「家を建てる者らが捨てた石が、隅のかしら石となった」、また「つまずきの石、さまたげの岩」となったのである。彼らは不従順であるがゆえに、みことばにつまずくのであり、しかも、そのようになるように定められていたのである。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である。それは、あなたがたをやみからその驚くべき光へと召してくださった方の栄誉を宣べ伝えるためである。あなたがたは、かつては民ではなかったが、今は神の民であり、あわれみを受けていなかったが、今はあわれみを受けた者である。第一ペテロ 2:3-10
終わりの時代の「祭司たち」とは、「主が恵み深いことを味わった」者たちである。「かつては」彼らは「民ではなかった」が、今は「神の民」である。彼らは「生ける石」を見いだした者たちであり、その石は「人々には確かに退けられたが、神に選ばれ、尊ばれた」ものである。その石とはレビ記二十六章の「七つの時」であり、ミラー派運動の「建築者たち」が1863年にそれを「退けた」。ミラー派の「建築者たち」は1798年から1844年までの四十六年間に神殿を築いたが、その後、1856年に到来した「七つの時」に関する「知識の増大」を拒むことを選んだ。
わたしの民は知識がないために滅びる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司とはしない。あなたがあなたの神の律法を忘れたので、わたしもあなたの子らを忘れる。彼らが数を増すにつれて、わたしに対して罪を犯した。それゆえ、わたしは彼らの栄光を恥に変える。ホセア書 4:6、7。
終わりの時代の「祭司」たちは、2001年9月11日以降にアドベンティズムの古い道へと導き戻されたとき、「七つの時」のメッセージを受け入れた。彼らは隠された書のメッセージを味わい、それは「尊い」ものであった。だがマラキは、終わりの時代の祭司たちは「呪われている」と言い、もちろん「七つの時」は呪いである。彼らは父祖たちの罪を繰り返したため、「七つの時」の呪いの下にある。マラキは、祭司たちが「汚れた供え物」を捧げることで神の御名を汚したと言う。その供え物とは、2020年7月18日の予言であった。
日の昇るところからその沈むところに至るまで、わが名は異邦人の間で大いなるものとなる。あらゆる所で、わが名のために香がささげられ、清い供え物がささげられる。異邦の民の間でわが名は大いなるものとなるからだ、と万軍の主は言われる。 しかしあなたがたは、「主の食卓は汚れている。その実り、すなわちその食物は軽蔑すべきものだ」と言って、それを汚した。 あなたがたはまた、「見よ、なんと骨の折れることか」と言い、それを鼻であしらった、と万軍の主は言われる。そしてあなたがたは、裂かれたもの、足なえのもの、病んだものを持って来た。そうして供え物を持って来た。わたしがあなたがたの手からそれを受けるべきだろうか、と主は言われる。 しかし、群れの中に雄がありながら誓いを立て、主に欠陥のあるものをささげる欺く者はのろわれよ。わたしは大いなる王である、と万軍の主は言われる。わが名は異邦の民の間で恐れられる。 さて今、祭司たちよ、この命令はあなたがたのためである。もしあなたがたが聞かず、心に留めてわが名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる、わたしはあなたがたにのろいを送り、あなたがたの祝福をのろう。そうだ、わたしはすでにそれらをのろった。あなたがたがそれを心に留めないからだ。 見よ、わたしはあなたがたの種を腐らせ、あなたがたの顔に糞を塗りつける。あなたがたの厳粛な祭りの糞さえも。それとともにあなたがたは運び出される。 こうして、わたしがこの命令をあなたがたに送ったのは、レビとのわたしの契約が保たれるためであることを、あなたがたが知るためである、と万軍の主は言われる。マラキ 1:11–2:4。
レビと結ばれた契約は、アロンの金の子牛の反逆における「獣の像」の試練において現れたレビ人の忠実さの象徴である。マラキ書において契約の使者によって清められるレビ人は、義にかなって「ささげ物」をささげるために清められる。そのささげ物とはキリストの御名のメッセージであり、すなわち彼の品性である。
世界を覆い隠しているのは、神についての誤解という暗闇である。人々は神の御品性についての知識を失いつつある。それは誤解され、曲解されてきた。今この時、神からのメッセージが宣べ伝えられるべきである。人々を照らし、その力によって救うメッセージである。神の御品性が明らかにされなければならない。世の暗闇に、神の栄光の光、すなわちその慈しみ、憐れみ、そして真理の光が注がれるべきである。
これは、預言者イザヤが次の言葉で示している働きである。「良い知らせを携えるエルサレムよ、力強く声をあげよ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に言え、『見よ、あなたがたの神を! 見よ、主なる神は力ある御手をもって来られ、その御腕は統べ治める。見よ、その報いは主とともにあり、その働きは主の御前にある。』」イザヤ書40章9、10節。
「花婿の来臨を待つ者たちは、人々に『見よ、あなたがたの神を』と言うべきである。あわれみの光の最後の光線、世に与えられる最後のあわれみのメッセージは、神の愛の品性の啓示である。神の子らは、神の栄光をあらわすべきである。彼ら自身の生活と品性において、神の恵みが彼らに何をなしてくださったかを示すのである。」『キリストの実物教訓』415.
マラキ書の祭司たちは、神の御名を汚す捧げ物を献げた。その捧げ物はメッセージを象徴しており、2020年7月18日にナッシュビルで発せられたメッセージは、堕落した捧げ物であった。それは、黙示録十章でキリストご自身が与えられた「もはや時がない」という預言的命令を無視するという反逆によって汚されたものである。
また、私が海の上と地の上に立っているのを見た御使いは、天に向かって手を上げ、とこしえに生きておられる方、すなわち天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけて誓った。「もはや時はない。」黙示録 10:5, 6.
マラキ書第3章でレビ人によって象徴される「義のささげ物」は、昔の日々のささげ物と同様であり、それはメッセージを表している。「昔の年月」は、ミラー派の歴史における最初の失望をもたらしたメッセージの純粋さを表している。汚れたささげ物は、2020年7月18日の腐敗したメッセージを表しているが、それでもなお、それは並行する出来事である。
彼は銀を精錬し清める者として座し、レビの子らを清め、彼らを金銀のように精錬して、彼らが主に義のささげ物をささげることができるようにする。そのとき、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、往年のように、主に喜ばれるものとなる。マラキ書 3:3、4。
マラキ書に記されている「呪い」は、エリヤが何を表しているのかを認めるかどうかが試されることを示している。今まさに目覚めつつある私たちは、「七倍」の呪いの現実が、2020年7月18日の罪深い予告を行って反逆を現した私たちの上に下ったのだと理解しなければならない。私たちはまた、どのような預言の方法論を自らの糧として選ぶのかを、もう一度決めなければならない。この事実を証するものは他にもあるが、その二つは、来るべきエリヤに関するマラキの記述と、エリヤ自身の歴史の中に見いだされる。エリヤは、正しいメッセージと方法論はただ一つしかないことを明確に示した。
ギレアデの住民の中のテシベ人エリヤはアハブに言った。「私が御前に立って仕えるイスラエルの神、主は生きておられる。私の言葉によらなければ、この数年の間、露も雨も降らない。」列王記上 17:1
マラキは、神の十分の一に関わる呪いに関連して、最後のエリヤが現れる時期に神の祭司たちにかけられている「呪い」を指摘した。マラキ書における十分の一の「呪い」は、神の民の側の決断を表している。というのも、彼らがすでに受けている呪いを取り除くためには、「倉」がどこにあり、何であるのかを決めなければならないからである。
見よ、わたしは使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが求めている主が、突然、その神殿に来られる。すなわち、あなたがたが喜ぶ契約の使者が。見よ、彼は来る、と万軍の主は言われる。 しかし、誰がその来る日を耐え忍べるか。彼が現れるとき、誰が立っていられようか。彼は精錬する者の火のようで、布を洗って漂白する者の石鹸のようだからである。 彼は銀を精錬し清める者として座し、レビの子らをきよめ、金や銀のように彼らを精錬して、彼らが主に義のささげ物をささげることができるようにする。 そのとき、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々、いにしえの年のように、主にとって喜ばしいものとなる。 わたしはあなたがたに近づいてさばきを行い、魔術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を搾取する者、やもめとみなしごをしいたげる者、寄留者の権利を曲げる者、そしてわたしを恐れない者に対して、すみやかな証人となる、と万軍の主は言われる。 わたしは主、変わることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅び尽くされていない。 あなたがたは、あなたがたの先祖の日から、わたしの定めからそれて、それを守らなかった。わたしに立ち帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに立ち帰る、と万軍の主は言われる。するとあなたがたは言う、「どのようにして立ち帰ればよいのか」と。 人が神から奪うことができるだろうか。ところが、あなたがたはわたしから奪っている。あなたがたは言う、「どのようにしてあなたから奪ったというのか」と。十分の一とささげ物においてである。 あなたがたは呪いをもって呪われている。あなたがた、この国民全体が、わたしから奪っているからだ。 十分の一のすべてを倉に携えてきて、わたしの家に食物があるようにせよ。こうして、わたしを今、これによって試してみよ、と万軍の主は言われる。わたしがあなたがたのために天の窓を開き、受けきれないほどの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを。 また、あなたがたのために食い荒らす者を叱りつけ、彼があなたがたの地の実りを滅ぼすことのないようにしよう。畑で、あなたがたのぶどうの木が時ならぬうちに実を落とすこともない、と万軍の主は言われる。 マラキ書 3章1-11節。
主は変わらないし、その方法も変えない。「十分の一」に関するマラキの「呪い」によって表されているその「呪い」が何であるにせよ、また何でないにせよ、十分の一は「倉」に携えて来るべきであり、それは神の家に「食物」があるためである。その事実は、「倉」が何であるか、また、第一の天使の運動においてウィリアム・ミラーによって表された食物――それは第三の天使の運動で食べられるべき食物の型を示していた――が何であったかを決定することを求める。その食物の象徴の一つは「雨」と「露」である。
天よ、耳を傾けよ、わたしは語る。地よ、わたしの口の言葉を聞け。 わたしの教えは雨のように滴り、わたしの言葉は露のようにしたたる。柔らかな若草に降る細雨のように、草の上に降り注ぐにわか雨のように。 わたしは主の御名を告げ知らせる。われらの神に偉大さを帰せよ。 彼こそ岩、御業は完全である。その道はみな公正であり、真実の神で、不正のない方。正しく、まっすぐな方である。 申命記 32:1-4
エリヤは、アハブに言ったことを本当にその意味のとおりに言ったのだろうか。彼は実際、終わりの時代に、エリヤ運動とそのメッセージが完全に成就するとき、「私の言葉によらなければ、この数年の間、露も雨も降らない」ということを意味していたのだろうか。エリヤが自分の言葉によらなければ降らないと語った「雨」は、マラキが祝福として約束する「雨」と一致するのだろうか。
十分の一をことごとく倉に携えて来て、わたしの家に食物があるようにせよ。今これによってわたしを試してみよ、と万軍の主は言う。わたしがあなたがたのために天の窓を開き、受けきれないほどの祝福を注ぐかどうか、見よ。マラキ 3:10.
では、「祭司」たちの聖別されていない「捧げ物」に対する「呪い」や、すでにもたらされている「十分の一」の乱用は、「七度」の「呪い」も表しているのか。
2023年7月末に、私たちは、本質的には「ハバククの板」と呼ばれる一連の研究に見いだされるメッセージを繰り返す記事の公開を始めました。今回の提示が従来と異なるのは、2020年7月18日以降、主がいくつかの古い教えを新たな光で示し始められた点です。
彼は、私には深遠に思える事柄を解き明かし始めたが、私は以前に成し遂げるよう与えられていた務めから個人的に離れており、それに向き合おうとしなかった。2020年7月19日に、私は前日の予言が誤っていたこと、そしてその罪深い予言とそれがもたらした恐ろしい結果について、私自身が他の誰よりも大きな責任を負っているのだと理解した。
そして2023年7月、私は、神の第三の天使の運動の指導者として完全に失敗していたにもかかわらず、少なくとも2020年7月以来自分が理解するに至ったことを書き記していくことを始めるべきだという、圧倒的な確信にとらわれた。私は、2020年7月18日の罪以来私に明らかにされてきたことを書面にし、永眠する前に公の記録として残すことを決意した。
7月以来のこの3か月で、これらの記事を追っている国は世界で70カ国以上にのぼる。確かに、中には邪な目的や意図で追っている者もいるに違いないが、すべてではない。私たちは、これらの記事を地球上の主要なすべての言語に載せるプログラムを、まさに稼働させようとしている。というのも、現時点では、それら70余りの国々は英語だけでこれらの真理を考えざるを得ないからだ。
私たちはすでに、世界各地で、これらの真理を十分に活用するための手段や資源を持たない人々を助けるために取り組んでいます。そして、神の家に「食物」を備えるという明確な目的を持つマラキ書の「倉」は、2023年7月以来これらの記事から発信されてきた真理を広める働きを指しているのではないかと、私は思います。
次回の記事でダニエル書第3章の考察を始めます。
私たちは、この地球の歴史における特別な時代に生きています。ごく短い間に大いなる働きを成し遂げなければならず、すべてのキリスト者がこの働きを支えるためにそれぞれの役割を果たすべきです。神は、魂の救いの働きに献身する人々を召しておられます。滅びゆく世界を救うためにキリストがどれほどの犠牲を払われたかを私たちが悟り始めるとき、魂を救うための力強い奮闘が現れるでしょう。ああ、私たちのすべての教会が、キリストの計り知れない犠牲を見て悟ることができますように!
夜の幻の中で、神の民の間での大いなる改革運動のさまざまな光景が、私の前を次々と通り過ぎていった。多くの人々が神を賛美していた。病人は癒され、ほかの奇跡も行われた。取りなしの霊が見られ、まさに偉大なペンテコステの日の前に現れたのと同じであった。何百、何千という人々が家庭を訪ね、彼らの前に神の御言葉を開いているのが見られた。心は聖霊の力によって確信に導かれ、真の回心の霊が現れた。あらゆるところで、真理を宣べ伝えるために扉が開かれた。世界は天来の感化によって明るく照らされたかのように見えた。神の真実で謙遜な民は大いなる祝福を受けた。私は感謝と賛美の声を聞いた。そして、1844年に私たちが目撃したような改革が起こっているかのようであった。
それでも、回心することを拒む者もいた。彼らは神の道を歩もうとせず、神の御業が前進するようにと自発的な献金を募る呼びかけがなされたとき、何人かは利己的にこの世の財産にしがみついた。こうした貪欲な者たちは、信者の群れから離れていった。
「神の裁きが地に臨んでおり、私たちは聖霊の感化のもとに、主が私たちに委ねられた警告のメッセージを伝えなければならない。私たちはこのメッセージを速やかに、行に行を、戒めに戒めを重ねて、述べなければならない。人々はまもなく重大な決断を迫られることになり、彼らが真理を理解する機会を与えられ、正しい側に思慮深く立場を取れるようにすることは、私たちの務めである。主は、その民に、猶予の時がなお残されている間に、熱心かつ賢明に働くよう召しておられる。」『証言』第9巻、126頁。