ダニエル書第十一章の中には、その章の最後の六節すべてと一致する預言の幾つかの系統がある。終わりの時である一九八九年における第四十節の歴史から、第四十一節の日曜法に至るまでと一致する部分こそ、終わりの日々に至るまで封じられていた預言の部分である。それは、恩恵期間が閉じる直前に封印が解かれる、「イエス・キリストの黙示」のダニエルによる補完である。第二節は、最後の共和党の大統領、最後の大統領、七人のうちに属する第八の者である大統領、そして二〇一五年に立候補を表明した際にグローバリストたちを動揺させ始めた、最も富裕な大統領であるトランプを導入している。第十節は一九八九年を示し、第十一節と第十二節は、プーチンの勝利とその後の破滅を伴って二〇一四年に始まったウクライナ戦争を示している。

13節から15節は、1989年のソ連崩壊に始まり、次いでウクライナ戦争、さらにパニウムの戦いへと続く、40節の三つの戦いのうち第三のものを述べている。このパニウムの戦いは、アメリカ合衆国における背教的なプロテスタント主義が世界のグローバリストに対して行う外的な闘争を表している。

背教的プロテスタンティズムが優勢となり、まもなく施行される日曜法によって実現する三者連合の上下関係を確立する。獣はカトリックであり、彼女は三つの勢力の頭であり、イゼベルやその他多くの象徴として表されている。彼女は獣を支配し、その上にまたがる大淫婦である。

偽預言者はアメリカ合衆国であり、竜の十重の王国の頭であるその夫アハブによって表されている。紀元前200年のパニウムの戦いは、グローバリズムと背教したプロテスタント主義との間の外的闘争を予表している。内的闘争は、紀元前167年の反乱によって表され、それに続いて紀元前164年のハヌカーによって記念される神殿の再奉献があり、さらにその後、紀元前161年から紀元前158年までの期間が続くが、これはアメリカ合衆国が「同盟」によって表される、カトリックの教会と国家の結合の像を立てることを予表している。

第十三節で、ウライア・スミスは次のように述べている。「ラフィアの戦いから十四年後、プトレマイオスは『不節制と放蕩』によって死に、その後を息子のプトレマイオス・エピファネス、当時四、五歳の子どもが継いだ。同じ時期、アンティオコスは自国の反乱を鎮圧し、東方の諸地域を服従させて安定させ、若きエピファネスがエジプトの王位に就いたときには、いかなる企てにも取りかかる余裕があった。」 プーチンの一時的な勝利が終われば、トランプはエジプトの新たな幼君に対処する準備が整うだろう。その前に、彼はアメリカ合衆国内で「反乱を鎮圧」しているだろう。

トランプが当選すれば、彼は1798年の外国人・治安諸法に象徴されるような法律を施行し、さらに、南北戦争に際して初の共和党大統領が行ったように、人身保護令の停止にも踏み切るだろう。彼の行動はまた、クー・クラックス・クランに対処したグラント大統領の措置、第二次世界大戦中に日系人などを収容したフランクリン・D・ルーズベルトの措置、そしてジョージ・W・ブッシュによる愛国者法にも典型的に示されている。

彼は、セレウコスのときと同様に、アメリカ合衆国での反乱を鎮圧し、その後、エジプトの「幼い王」に目を向けるだろう。その際、彼はマケドニアのフィリッポスと同盟を結ぶ。というのも、スミスは次のように記しているからである。「同時に、マケドニア王フィリッポスは、プトレマイオスの領土を両者で分割するためにアンティオコスと同盟を結び、それぞれ自分に最も近く都合のよい部分を取ることを提案した。ここには、預言を成就させるに十分な、南の王に対する反乱があったのであり、そしてそれは、疑いなく、その預言が意図していたまさにその出来事であった。」

トランプは、ロシアへの対処と、プーチン崩壊の余波を収拾することの複雑さに対処するため、NATO(国際連合)の諸国民と強固な同盟を結ぶであろう。その時、十四節とスミスの注解によれば、「新たな勢力が導入される」。教皇制は、NATOおよびアメリカ合衆国の権威からロシアとその衛星諸国を守るために仲裁に入るであろう。あるいは、スミスの注解が引用するところでは、「ローマが語った。するとシリアとマケドニアは、まもなく彼らの夢の様相に変化が訪れるのを見いだした。ローマ人はエジプトの若い王のために干渉し、彼がアンティオコスとピリッポスの企てた破滅から守られるべきことを決定した。これは紀元前200年のことであり、シリアとエジプトの affairs に対するローマ人の最初の重要な干渉の一つであった。」

ローマ、すなわちツロの淫婦は、自らの歌を歌い始め、地の王たちと姦淫を行う。これは、わずか二節後にその王たちが彼女に完全に服従することになるのに先立つ出来事である。同じ時期に、パニウムの戦いが起こった。紀元前200年は、ツロの淫婦が歌い始める時を指し示しており、彼女がそうするのはロシアの保護に関してで、アメリカ合衆国と国際連合が相互の利益のためにロシアを分割することで合意したばかりであった。淫婦は両者に打ち勝つが、その後にパニウムの「戦い」が起こり、アメリカ合衆国が国際連合に打ち勝つ。

象徴的に言えば、その三十三年後、モデインの反乱が合衆国において始まる。象徴的に言えば、そのさらに三年後、ハヌカーによって表される、いわゆるプロテスタンティズムと立憲共和国の再奉献が確立される。象徴的に言えば、そのさらに三年後、ユダヤ人とローマとの同盟によって表される期間が始まる。

最終局面の動きは急速なものとなるため、諸節において四十八年で表されている歴史は、預言が1989年の終わりの時に始まると明確に特定している一連の急速な出来事を記述している。続いて2014年には11節と12節に示された第二の戦いが起こり、さらに2015年にはトランプが大統領選への立候補を表明し、こうして彼はグローバリズムを煽り立てるという預言的な働きを開始した。トランプがすでに進行している内戦を抑え込む働きを開始すると、彼は国連(NATO-マケドニアのフィリッポス)との同盟を試み、ローマが歌い始めるだろう。その試みられた同盟は、パニウムの戦いで表される二つの勢力間の覇権争いへと発展する。

したがってパニウムは第十三節の道しるべであり、そこで日曜法に先立つ最後の急速な動きが始まる。すべての預言者は自分たちの生きた時代よりも世の終わりについて多く語り、イエスはもちろんすべての預言者の中で最も偉大であった。日曜法を象徴する十字架(それは第十六節に表されている)の直前に、イエスは弟子たちとともにパニウムへ旅をされた。そこで過ごされた時と、そこで示された教えは、間もなく到来するパニウムの戦いと一致している。歴史を通じてパニウムにはいくつかの名称があり、キリストの時代にはパニウムはカイサリア・フィリピと呼ばれていた。

イエスと弟子たちは、カイサリア・フィリピの近くの町の一つに来ていた。彼らはガリラヤの境を越え、偶像崇拝がはびこる地域にいた。ここでは、弟子たちはユダヤ教の支配的な影響から引き離され、異教の礼拝により密接に触れることになった。彼らの周囲には、世界の至る所に存在する迷信の諸形態が見られた。イエスは、こうしたものを目にすることで、弟子たちが異邦人に対する自らの責任を感じるようになることを望まれた。この地方に滞在している間、イエスは群衆への教えから身を退き、弟子たちにいっそう専心しようと努められた。

彼は、自分を待ち受ける苦難について彼らに語ろうとしていた。だがまず、彼はひとりで離れて行き、彼の言葉を受け入れる備えが彼らの心にできるよう祈った。彼らのもとに戻っても、彼は伝えたいことをすぐには告げなかった。その前に、これから来る試練に備えて強められるよう、彼への信仰を告白する機会を彼らに与えた。彼は尋ねた。「人々は、人の子であるわたしをだれだと言っているか。」

悲しいことに、弟子たちは、イスラエルが自分たちのメシアを見いだせなかったことを認めざるをえなかった。実際、彼の奇跡を見て彼をダビデの子だと宣言した者もいた。ベツサイダで食べ物を与えられた群衆は、彼をイスラエルの王として立てたいと望んだ。多くの者は彼を預言者として受け入れる用意はできていたが、彼がメシアであるとは信じなかった。

イエスは次に、弟子たち自身に関する第二の問いをなさった。「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「あなたはキリスト、生ける神の御子です。」

ペテロは初めから、イエスこそメシアであると信じていた。そして、バプテスマのヨハネの宣教によって確信に至り、キリストを受け入れていた多くの人々も、彼が投獄されて処刑されると、ヨハネの使命について疑い始め、長く待ち望んできたメシアがイエスであることにも疑念を抱くようになった。イエスがダビデの王座に就かれることを熱心に期待していた多くの弟子たちは、彼にその意図がないと悟ると、彼のもとを離れた。しかし、ペテロとその仲間たちは、その忠誠を翻すことはなかった。昨日は称賛し、今日は非難するような移り気な人々のふるまいも、救い主の真の弟子の信仰を打ち砕くことはなかった。ペテロは「あなたはキリスト、生ける神の子です」と宣言した。彼は主に王としての栄誉が授けられるのを待たず、へりくだりの中におられる主を受け入れた。

ペテロは十二人を代表して信仰を告白した。だが弟子たちはなお、キリストの使命を理解するにはほど遠かった。祭司や指導者たちの反対と曲解は、彼らをキリストから引き離すことはできなかったが、それでも大きな困惑を引き起こした。彼らは自分たちの進むべき道を明確に見てはいなかった。幼いころからの訓練の影響、ラビたちの教え、伝統の力が、なお真理への視界を遮っていた。時おりイエスから尊い光が彼らに差し込んだが、しばしば彼らは影の中を手探りする者のようであった。だがこの日、信仰の大いなる試練に直面する前に、聖霊が力をもって彼らの上にとどまった。しばしの間、彼らの目は「見えるもの」から離され、「見えないもの」へと向けられた(コリント人への第二の手紙 4:18)。人としての姿の覆いの下に、彼らは神の子の栄光を見た。

イエスはペテロに答えて言われた。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いです。これをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天にいますわたしの父です。」

ペテロが告白した真理は、信者の信仰の土台である。それこそ、キリストご自身が「永遠のいのち」と宣言されたものである。しかし、この知識を持っていることは、自らを誇る根拠にはならなかった。ペテロにそれが啓示されたのは、彼自身の知恵や善によるのではなかった。人間は、自分自身の力だけでは、決して神なるものの知識に到達することはできない。「それは天にまで高く、あなたに何ができようか。よみにまで深く、あなたに何が知りえようか。」ヨブ記 11:8。私たちに「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に入ったこともない」神の深い事柄を明らかにしうるのは、ただ子としてくださる御霊だけである。「神はそれらを御霊によって私たちに啓示された。というのは、御霊は一切のこと、そう、神の深みまでも探られるからである。」第一コリント 2:9,10。「主の奥義は主を恐れる者と共にある。」そして、ペテロがキリストの栄光を見抜いたという事実は、彼が「神によって教えられていた」ことの証拠であった。詩篇 25:14;ヨハネによる福音書 6:45。ああ、まことに、「ヨナの子シモン、あなたは幸いだ。というのも、それをあなたに明らかにしたのは血肉ではないからだ。」

イエスは続けて言われた。「また、わたしはあなたに言います。あなたはペテロです。この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはありません。」ペテロという名は「石」—転がる石—を意味する。ペテロは、教会が建てられたその岩ではなかった。彼が呪いと誓いをもって主を否んだとき、ハデスの門は彼に打ち勝った。教会は、ハデスの門も打ち勝つことのできないお方の上に建てられた。

救い主のご降誕より何世紀も前に、モーセは「イスラエルの救いの岩」を指し示していた。詩篇の詩人は「わたしの力の岩」を歌った。イザヤはこう記した。「主なる神はこう仰せられる。見よ、わたしはシオンに、土台として一つの石、試された石、尊い隅のかなめ石、確かな土台を置く。」申命記 32:4、詩篇 62:7、イザヤ書 28:16。 霊感によって筆を執ったペテロ自身も、この預言をイエスに適用している。彼はこう言う。「もしあなたがたが主の恵み深さを味わっているのなら、その方のもとに来なさい。その方は、人々には捨てられたが、神には選ばれた尊い、生ける石である。あなたがたもまた、生ける石として、霊的な家へと築き上げられていく。」第一ペテロ 2:3-5、R. V.

「『すでに据えられている土台、すなわちイエス・キリストのほかに、だれも別の土台を据えることはできない。』コリントの信徒への手紙一 3章11節。『この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる』とイエスは言われた。神と、天のすべての知的存在の前で、また見えざる地獄の軍勢の前で、キリストは生ける岩の上にご自分の教会を据えられた。その岩とはご自身、すなわち私たちのために裂かれ、打ち傷を負われたご自身のからだである。この土台の上に建てられた教会に対しては、地獄の門も打ち勝つことはできない。」

キリストがこれらの言葉を語られたとき、教会はどれほど弱々しく見えたことだろう。信者はほんの一握りしかおらず、彼らに対して悪霊と悪しき人々のあらゆる力が向けられるはずだった。それでもキリストの弟子たちは恐れてはならなかった。彼らの力の岩である方の上に建てられていたので、覆されることはなかった。

六千年にわたり、信仰はキリストの上に築かれてきた。六千年のあいだ、サタンの憤怒の洪水と嵐が私たちの救いの岩を打ちつけてきたが、それは揺るがずに立っている。

ペテロは教会の信仰の土台となる真理を言い表し、イエスは今、信じる者たち全体の代表として彼をお認めになった。イエスは言われた、「わたしはあなたに天の御国の鍵を与える。あなたが地上で縛るものは何でも天においても縛られ、あなたが地上で解くものは何でも天においても解かれる。」

「天の御国の鍵」はキリストの言葉である。聖書のすべての言葉はキリストの言葉であり、「鍵」に含まれる。これらの言葉には天の御国を開き、また閉ざす力がある。それらは、人が受け入れられるか退けられるかの条件を示す。ゆえに、神の言葉を宣べ伝える者の働きは、命に至る香りともなり、死に至る香りともなる。彼らの使命は、永遠に関わる結果を伴う重いものである。

救い主は、福音の働きをペテロ一人に委ねたのではなかった。のちに、ペテロに語られた言葉を繰り返し、今度はその言葉を教会に向けて直接語られた。そして同じ趣旨のことが、信じる者の群れの代表として十二弟子にも語られた。もしイエスが、弟子のうちの一人に他の者たちよりも特別な権威を委ねておられたなら、彼らがだれがいちばん偉いかをめぐって、あれほどたびたび争うことはなかったはずである。彼らは主の御心に従い、主が選ばれた者を尊んだであろう。

彼らのかしらとして一人を立てるのではなく、キリストは弟子たちに言われた。『ラビと呼ばれてはならない。』『また、師と呼ばれてはならない。あなたがたの師はただ一人、すなわちキリストである。』マタイ23:8, 10。

『すべての男のかしらはキリストである。』救い主の足の下に万物を従わせた神は、『教会に、万物の上にあるかしらとしてキリストをお与えになった。教会は彼のからだであり、すべてにおいてすべてを満たす方の満ちておられるところである。』コリント第一 11:3;エペソ 1:22、23。教会はその土台としてキリストの上に建てられており、かしらとしてのキリストに従うべきである。教会は人間に頼ったり、人間に支配されたりしてはならない。多くの者が、教会における信頼を託された地位が、自分たちに他の人々が何を信じ、何をすべきかを指図する権威を与えるのだと主張している。この主張を神は是認されない。救い主は、『あなたがたは皆、兄弟である』と宣言される。すべての者は誘惑にさらされ、誤りに陥りやすい。導きを得るために、私たちはどんな有限の存在にも頼ることはできない。信仰の岩は、教会におけるキリストの生ける臨在である。これに最も弱い者もより頼むことができ、また、自分を最も強いと思う者も、キリストを自らの力としないなら、最も弱い者であることが明らかになる。『人間に信頼し、肉をその腕とする者は呪われよ。』主は『岩であり、そのみわざは完全である。』『主に信頼する者はみな幸いである。』エレミヤ 17:5;申命記 32:4;詩篇 2:12。

ペテロの告白の後、イエスは、自分がキリストであることを誰にも言わないようにと弟子たちに命じた。これは、律法学者とパリサイ人の強硬な反対のためであった。さらに、民衆はもとより、弟子たちでさえメシヤについての理解を大いに誤っており、もし彼のことを公に告げ知らせても、彼の人格や働きについて真の理解を与えることにはならなかった。しかしイエスは日々、救い主としてのご自身を彼らに現しておられ、このようにして自分がメシヤであることについての正しい理解を彼らに持たせたいと望まれた。

「弟子たちはなお、キリストが地上的な君主として統治されることを期待していた。主は長い間そのご計画を覆い隠してこられたが、弟子たちは、主がいつまでも貧しさと無名のうちにとどまられることはないと信じていた。主がその御国をお建てになる時は近い、と。祭司たちやラビたちの憎悪が決して克服されることはなく、キリストがご自身の民によって退けられ、惑わす者として宣告され、犯罪人として十字架につけられるであろうなどという考えは、弟子たちの胸にかつて浮かんだことがなかった。だが、暗黒の力の時は迫っており、イエスは弟子たちに、彼らの前にあるその闘いを明らかにしなければならなかった。主は、その試練を予見して悲しんでおられた。」『各時代の希望』411-415頁。

ダニエル書11章16節は、アメリカ合衆国で間もなく施行される日曜法を表している。その「地震」の時の直前に、十四万四千の一員となることを求めている者たちは眠りから目を覚ます。彼らを目覚めさせるのは預言的なメッセージである。その時、二つの階級が現れ、十人の乙女のたとえに示されているように、一方の階級は器に油を持ち、他方は持たない。ダニエル書11章13節から15節は、日曜法に先立つ預言的歴史を表しているだけでなく、十人の乙女のたとえの文脈においては「油」となる「メッセージ」を表しており、賢い者たちはそれを持つことによって神の印を受け、大いなる地震の時に旗印として掲げられる。これらの記事は今や一連の記事の頂点に達した。なぜなら、これらの節に表されているメッセージこそ、二つの金の管を通して注ぎ下される黄金の油だからである。

次回の記事でこの研究を続けます。

真理を唱える者たちがサタンに仕えている限り、彼の地獄のような影が、神と天を見る彼らの目を遮ってしまう。彼らは初めの愛を失った者のようになる。彼らは永遠の現実を見ることができない。神が私たちのために備えておられるものは、ゼカリヤ書の3章と4章、そして4章12節から14節に表されている。『わたしはさらに答えて彼に言った、「二つの金の管を通して、自らのうちから金の油を注ぎ出しているあの二本のオリーブの枝は何ですか。」 彼はわたしに答えて言った、「これらが何であるか、あなたは知らないのか。」 わたしは言った、「いいえ、主よ。」 すると彼は言った、「これらは、全地の主のそばに立つ二人の油注がれた者である。」』

主はあらゆる備えに満ちておられる。主に手段の不足はない。私たちの信仰の欠如、地上的な心、軽薄な言葉、会話に現れる不信のために、暗い影が私たちを取り巻くのである。キリストは、全く麗しい方、万の中にひときわ優れた方として、言葉や品性に現されていない。魂が虚栄に向かって自らを高ぶらせることに満足しているとき、主の御霊はそのためにほとんど何もしてやることができない。近視眼の私たちは影こそ見ても、その彼方の栄光を見ることができない。御使いたちは四方の風を押さえている。四方の風は、怒れる馬に譬えられ、手綱を振り切って地の全面を駆けめぐろうとし、その跡に滅びと死をもたらそうとしている。

「永遠の世界のまさに縁にいながら、私たちは眠っていてよいのでしょうか。私たちは鈍く、冷たく、死んだようであってよいのでしょうか。ああ、私たちの教会において、神の御霊と命の息とがその民に吹き込まれ、彼らがその足で立ち上がって生きるようになることを。私たちは、その道が狭く、門が狭いことを理解する必要があります。しかし、私たちがその狭い門を通るとき、その広がりには限りがありません。」Manuscript Releases, volume 20, 217.

全地の主のそばに立つ受膏者たちは、かつてサタンに与えられていた守りのケルブとしての地位を持っている。御座を取り巻く聖なる存在たちを通して、主は地に住む者たちと絶えず交信を保っておられる。黄金の油は、神が信者のともしびを満たし続け、揺らいで消え去ることのないようにされる、その恵みを表している。もし神の御霊の告げることばにおいてこの聖なる油が天から注がれなければ、悪の諸勢力が人を完全に支配してしまうだろう。

私たちが神から送られるみ告げを受け取らないとき、神は辱められる。こうして、暗闇の中にいる者たちに伝えられるために、神が私たちの魂に注ぎ込もうとしておられる黄金の油を、私たちは拒んでしまう。「見よ、花婿が来る。出て行って彼を迎えよ」という呼びかけが来るとき、聖なる油を受け取らず、心にキリストの恵みを大切にしてこなかった者たちは、愚かな乙女たちのように、自分たちが主をお迎えする備えができていないことに気づくであろう。彼らには、その油を得る力が自分自身の内にないので、彼らの人生は難破してしまう。しかし、もし神の聖霊を求め、モーセがそうしたように「あなたの栄光を私に見せてください」と嘆願するなら、神の愛は私たちの心に豊かに注がれる。黄金の管を通って、黄金の油が私たちに注がれるであろう。「権勢によらず、力によらず、ただわが霊によって」と万軍の主は言われる。義の太陽の輝く光線を受けて、神の子どもたちは世にあって光として輝く。Review and Herald, 1897年7月20日。