最近の記事で私たちは、「証の霊」のいくつかの箇所に言及してきました。そこでは、2001年9月11日から、ミカエルが立ち上がり人類の恩恵期間が閉ざされる時までの期間が示されています。その期間には、至聖所におけるキリストの最後の働きを指し示すいくつかの預言的な例証があります。
ダニエル書8章のウライ川の幻において、聖所におけるキリストの働きが表されています。そしてホワイト姉妹は、ウライ川の幻がいま成就の過程にあることを私たちに知らせています。現在成就しつつある天の聖所での最後の働きは、さまざまな預言的な用語で表現されています。それは、ほかの預言的表現とともに、「封印の時」「後の雨」「救いの締めくくりの働き」「聖所の清め」などとして表されています。これらの用語を総合し、またそれらを正しい歴史的文脈に位置づけることが重要です。
その時、救いの働きが終わろうとしている間に、地上には患難が臨み、諸国民は怒るが、第三天使の働きを妨げないように抑えられる。その時、「後の雨」、すなわち主の御前からの潤いが下り、第三天使の大いなる叫びに力を与え、最後の七つの災いが注ぎ出される時期に堅く立てるよう聖徒たちを備える。『初期の著作』85。
『第三天使の働き』は、また『救いの働き』でもあり、それは『最後の七つの災いが注がれるときに聖徒たちが堅く立つ』ために備えるものである。
諸国の民は怒り、あなたの御怒りが来ました。死者が裁かれる時が来て、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、また小さな者から大きな者まで、あなたの御名を恐れる者たちに報いをお与えになり、地を滅ぼす者たちを滅ぼされる時が来ました。ヨハネの黙示録 11:18
諸国は、恩恵期間が閉じられる前に怒る(恩恵期間が閉じられる時に神の怒りが注がれる)。しかし諸国が怒るときにも、彼らは「抑えられている」。諸国が怒る「時」は、救いの働きの終結の始まりを示しており、救いの働きの終結とは神の民への封印である。
主の働きと魂の救いの精神を心に抱く神の真の民は、常に罪をその真の罪深い性質として見るであろう。彼らは、神の民に容易にまとわりつく罪に対して、忠実かつ率直に対処する側にいつも立つ。とりわけ教会に対する最後の働き、すなわち神の御座の前で非のない者として立つことになる十四万四千人の封印の時には、彼らは神を名のる民の不正を最も深く痛感するであろう。これは、各々が手に殺戮の武器を持つ者たちの姿という象徴のもとに最後の働きを示した預言者の描写によって、力強く示されている。その中に一人、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを帯びた者がいた。「主は彼に言われた。『この都の中、エルサレムのただ中を通り、その中で行われているすべての忌むべきことのために嘆き叫ぶ者たちの額に、しるしを付けよ。』」Testimonies, volume 3, 266.
諸国民は、十四万四千人に印を押すことが妨げられないように抑えられている。黙示録7章では、その抑えられている怒りに満ちた諸国民は、まさに同じ期間中に抑えられている四つの風として表されており、その時は一定の期間として明確に示されている。
サタンは今、この封印の時に、神の民の心を現在の真理から遠ざけ、彼らを動揺させるために、あらゆる手段を用いている。私は、患難の時に彼らを守るために、神がご自分の民の上にかけておられる覆いを見た。そして、真理に心を定め、心の清いすべての魂は、全能者の覆いに包まれるであろう。
サタンはこれを知っており、できる限り多くの人々の心が真理について動揺し、定まらないままでいるよう、大いなる力をもって働いていた。...
今まさにこの封印の時に、サタンがこのような方法で神の民の注意をそらし、欺き、引き離そうとして働いているのを私は見た。私は、現在の真理のために断固として立っていない者たちがいるのを見た。彼らは真理の上にしっかりと立っていなかったので、膝は震え、足は滑っていた。そして彼らがそのように震えている間は、全能の神の覆いが彼らの上に引きかけられることはなかった。
「サタンは、封印の時期が過ぎ去り、神の民の上に覆いが掛けられ、彼らが最後の七つの災いにおいて神の燃える御怒りからの避け所もなく取り残されるまで、彼らをその場にとどめておこうと、ありとあらゆる術を尽くしていた。神はすでにこの覆いを御自分の民の上にかけ始めておられ、やがて、殺戮の日に避け所を得る者は皆、その覆いで覆われるであろう。神は御自分の民のために力をもって働かれ、サタンにもまた働くことが許されるであろう。」『初期の著作』43、44.
ホワイト夫人は1851年にこれらの言葉を書いた。それは、神の民がラオデキアの状態に入り、「七つの時」という増し加えられた光を拒んで封印の働きを遅らせてしまうことになる、その5年前のことである。その光は、さらに増し加わり、最後の七つの災いに先立って、神がご自分の民を覆うという働きを完成させていたはずであった。ところが、神の民は反逆し、古代イスラエルの反逆と荒野の放浪に象徴されているように、ラオデキアの荒野をさまよう身とされた。古代イスラエルの反逆者のうち、約束の地に入ったのは何人であったか。聖書、または預言の霊のどの箇所が、救われるラオデキア人を一人でも示しているだろうか。答えは「一人もいない!」である。ラオデキア人は、荒野で死んだ古代イスラエルの人々と同じように失われた者だからである。
十四万四千人への封印は一定の期間であり、それは四人の天使が四方の風を抑えるときに始まる。そのときはまた、諸国民が怒ってはいながら抑えられている時でもある。封印の期間のあいだ、神はご自分の民が七つの最後の災いの時に立ち続けられるよう備えられる。そしてその備えは、神がご自分の民の上に「覆い」をかけることとして表され、また救いの業を仕上げ、第三の天使の働きを終えることとしても表される。これらすべての比喩で示されているその備えは、「現在の真理」を受け入れることに基づいている。
『現在の真理のために堅く立つ』ことをしない者は、『動揺している』者である。というのも、彼らの心は『現在の真理』に向けられていなかったからだ。彼女はこう書いている。「私は、『現在の真理のために堅く立っていない』人々を何人か見た。彼らの膝は震え、足は滑っていた。というのも、彼らは真理の上にしっかりと立っておらず、このように震えているあいだは、全能の神の覆いを彼らの上にかけることができなかったからである。」
「現在の真理」は「覆い」を与えるものであり、その「覆い」はまた「神の印」としても表される。「神の印」は、ヘブライ人の戸口を覆った血によって象徴されていた。戸口がその血で「覆われていた」家々を、滅びの天使が過ぎ越すことができた。「覆い」は「封印」であり、その「封印」は「現在の真理」によって施される。
彼らをあなたの真理によって聖めてください。あなたのみことばは真理です。ヨハネ 17:17.
あらゆる改革運動にはそれぞれ固有の主題があり、十四万四千人の改革運動の主題は「第三の災いのイスラム」である。終わりの時代における「現在の真理」は、第三の災いのイスラムである。
「聖書は神の民に絶えず開かれている。各時代には、その時代に特に適用される真理が、これまでも存在し、これからも存在し続ける。」レビュー・アンド・ヘラルド、1886年6月29日。
それは、終わりの時代に神の民に印を押す現在の真理の「メッセージ」であり、封印の時は、四つの風が押しとどめられるときに始まるものとして示されている。諸国の民は2001年9月11日に憤り、その時点で十四万四千人の封印が始まった。なぜなら、「メッセージ」である後の雨の封印が解かれ始めたからである。
「教会の経験における深く胸を打つ光景が、ヨハネに開かれた。彼は神の民の置かれた立場、危険、闘争、そして最終的な解放を見た。彼は、地の収穫を成熟させる終局のメッセージを記録している。それは、天の穀倉に収める穂束となるか、滅びの火のための柴束となるかの、いずれかである。とりわけ終わりの時代の教会のために、きわめて重大な主題が彼に啓示された。誤りから真理へと立ち返ろうとする者たちが、彼らの前にある危険と闘争について教えられるように。地上に何が臨もうとしているのかについて、誰ひとり暗闇の中にいる必要はない。」『大争闘』341。
諸国民が怒りをあらわにしたとき、同時に彼らは押しとどめられ、「後の雨」が降り始めた。そしてその「後の雨」とは、神の民を封印する「現在の真理」のメッセージである。
バトルクリークでの働きも同じやり方で進められている。療養所の指導者たちは不信者と交わり、多かれ少なかれ彼らを評議の場に受け入れてきたが、それは目を閉じて事に当たるようなものだ。彼らには、いつ何時私たちに何が降りかかるかを見抜く識別力が欠けている。絶望、戦争、流血の霊があり、その霊は時の終わりに至るまで勢いを増していく。神の民が額に印を押されるやいなや—それは目に見える印や標ではなく、知的にも霊的にも真理に落ち着き、動かされなくなること—神の民が封印され、揺り動かしに備えられるやいなや、その揺り動かしはやって来る。実際、それはすでに始まっている。神の裁きは今やこの地に臨んでおり、私たちに警告を与え、何が来ようとしているのかを知ることができるようにするためである。『Manuscript Releases』第10巻、252頁。
「封印」とは「真理への定着」である。封印の時に関して、彼女はこう書いている。「絶望と戦争と流血の霊があり、その霊は時の終わりの直前まで増大する。」諸国民が怒りに燃えるとき、彼らは抑えられるが、「四つの風」として表される「戦争と流血」は「時の終わりの直前まで増大する」。第三の災いにおけるイスラムは、時の終わりの直前まで戦闘を段階的に激化させていき、十四万四千人の改革における「主題」としてのイスラムに関する予言的理解も、同じ期間に同時に高まっていく。イスラムによってもたらされる段階的な激化は、まったく同じ期間における後の雨の注ぎと並行して進む。というのも、後の雨は「メッセージ」だからである。
全地の主のそばに立つ受膏者たちは、かつてサタンに与えられていた守りのケルブとしての地位を持っている。御座を取り巻く聖なる存在たちを通して、主は地に住む者たちと絶えず交信を保っておられる。黄金の油は、神が信者のともしびを満たし続け、揺らいで消え去ることのないようにされる、その恵みを表している。もし神の御霊の告げることばにおいてこの聖なる油が天から注がれなければ、悪の諸勢力が人を完全に支配してしまうだろう。
私たちが神から送られるみ告げを受け取らないとき、神は辱められる。こうして、暗闇の中にいる者たちに伝えられるために、神が私たちの魂に注ぎ込もうとしておられる黄金の油を、私たちは拒んでしまう。「見よ、花婿が来る。出て行って彼を迎えよ」という呼びかけが来るとき、聖なる油を受け取らず、心にキリストの恵みを大切にしてこなかった者たちは、愚かな乙女たちのように、自分たちが主をお迎えする備えができていないことに気づくであろう。彼らには、その油を得る力が自分自身の内にないので、彼らの人生は難破してしまう。しかし、もし神の聖霊を求め、モーセがそうしたように「あなたの栄光を私に見せてください」と嘆願するなら、神の愛は私たちの心に豊かに注がれる。黄金の管を通って、黄金の油が私たちに注がれるであろう。「権勢によらず、力によらず、ただわが霊によって」と万軍の主は言われる。義の太陽の輝く光線を受けて、神の子どもたちは世にあって光として輝く。Review and Herald, 1897年7月20日。
後の雨はまず「ぱらつき」として始まり、最終的には完全な注ぎ出しへと高まっていく。後の雨の「ぱらつき」は、その雨が「量り分けられている」状態を指し、完全な注ぎ出しとは「量りなしに」注がれる時である。ホワイト夫人は、後の雨が降っていて、ある者はそれを受け、ある者は受けないという時があることを明確に示している。その時、その雨は「量り分けられて」おり、すなわち「ぱらついて」いる。
何かが起きていることに気づく人もいるだろうが、彼らはただ怯えるだけだ。
教会において神の力の驚くべき現れがあるだろう。だが、主の前にへりくだらず、告白と悔い改めによって心の戸を開かなかった者たちには、それは働きかけない。神の栄光によって地を照らすその力の顕現において、彼らは、自らの盲目のゆえにそれを危険だと見なし、恐れをかき立てるものとしか見ない。そして、それに抵抗しようと身構える。主が彼らの期待や理想どおりには働かれないので、彼らはその働きに反対する。「なぜ」と彼らは言う。「私たちはこんなにも長年この働きに携わってきたのに、どうして神の御霊を知らないはずがあろうか。」それは、彼らが神からのメッセージの警告と懇請に応えず、かえって「私は富んでおり、豊かになって、何の不自由もない」と頑なに言い続けたからである。マラナタ、219
多くの人は、初雨を大いに受け損なっている。彼らは、このようにして神が彼らのために備えられた恵みを、余すところなく受けてはいない。足りない分は後の雨が満たしてくれると期待している。最も豊かな恵みが授けられるときに、それを受けるために心を開くつもりでいる。これは恐るべき誤りである。神がその光と知識を与えて人の心に始められた業は、絶えず前進し続けなければならない。一人ひとりが自分の必要を悟らなければならない。心はあらゆる汚れを取り除いて空にし、聖霊の内住のために清められなければならない。初代の弟子たちは、罪を告白して捨て、熱心に祈り、自らを神にささげることによって、五旬節の日に聖霊の注ぎを受ける備えをした。同じ業を、ただしよりいっそう大きな程度で、今なさなければならない。そのとき人は祝福を求め、自分に関する業を主が成就してくださるのを待つだけでよかった。業を始められたのは神であり、神はイエス・キリストにあって人を完全にして、その業を完成してくださる。しかし、初雨に象徴される恵みをおろそかにしてはならない。与えられている光に従って生きている者だけが、さらに大いなる光を受ける。私たちが日々、生きたキリスト者の徳を実践することにおいて前進していなければ、後の雨における聖霊の現れを認めることはできない。それは私たちの周りの人々の心に降り注いでいるかもしれないが、私たちはそれを見分けることも受けることもできないであろう。『牧師たちへの証言』506、507頁。
その箇所で彼女は、「最も豊かな恵みが授けられる」時があることを指摘し、すなわち後の雨が惜しみなく注がれる時を示している。その事実に関連して、与えられている光に忠実に生きている者だけが、さらに大きな光を受けると彼女は指摘している。この原則から、光(すなわち現在の真理)は段階的に増し加わっていくことが明らかである。最後の文で彼女は、後の雨が降っている時に、ある者はそれを認めて受け入れる一方、他の者はそうしないことを指摘している。もしそのメッセージ、すなわち後の雨を認識しないなら、あなたはそれを受けることはできない。
「私たちは後の雨を待ってはなりません。後の雨は、私たちの上に降る恵みの露と雨を認め、受け入れるすべての者の上に、今まさに注がれようとしているのです。私たちが光のかけらを拾い集め、私たちが神に信頼することを喜ばれる神の確かな慈しみを大切にするなら、すべての約束は成就します。[イザヤ書61章11節引用。] 全地は神の栄光で満たされるのです。」セブンスデー・アドベンチスト聖書注解 第7巻、984ページ。
怒れる諸国民が抑えられているとき、「後の雨」は「量られる」ことが始まる。「『最も豊かな恵みが授けられる』とき」とは、後の雨が限りなく注がれるときを指し示している。
諸国民が怒ってはいながらも抑えられている時に、後の雨が降り始める。しかし、その時点で教会は小麦と毒麦が混在しているため、それは「量られて」与えられる。それは小麦も毒麦も共に成熟させる雨であり、後の雨とは、認めて受け入れる者もいればそうでない者もいる、現代の真理のメッセージである。これらの預言的な概念はすべて聖書の中で明確に示されている。2001年9月11日、後の雨は「ぱらつき」、真夜中の叫びのメッセージが到来し、賢いおとめたちと愚かなおとめたちが永遠に分けられるまで、段階的に勢いを増していく。
そのとき賢い者たちは、神のほかの群れをバビロンから呼び出すための旗印として高く掲げられ、後の雨は限りなく注がれ、ミカエルが立ち上がり人間の猶予期間が閉じられるまで降り続く。
「私は、四人の天使がイエスの働きが聖所で終わるまで四つの風を押さえており、その後、最後の七つの災いが来るのを見た。」『初期の著作』36。
四方の風を押さえていることは、終わりの時に神が起こるのを許される、激化していく裁きに対する神の摂理的支配を表している。十四万四千人が封印されている間は、四人の天使が四方の風を押さえているが、その期間には「絶望と戦争と流血の霊」があり、その霊はいよいよ強まっていく。神の子らの最後のひとりまでが封印されると、ミカエルが立ち上がり、四方の風は完全に解き放たれ、最後の七つの災いが到来する。
黙示録第十一章の「大地震の時」、ダニエル書第九章の「困難な時」、すなわち街路と城壁が完成する時は、「諸国民が怒る」時である。その時期に、後の雨は「量をもって」注がれる。イザヤは、後の雨が量られる時を示し、その時を「東風の日」と記している。「東風の日」は、2001年9月11日であった。
私たちは次の記事で後の雨の「測定」について引き続き考察するが、ミラーの夢における宝石、すなわちハバククの聖なる表にイスラムの三つのわざわいとして表されているものは、ミラーがそれを最初に取りまとめたときよりも、終わりの日には十倍も輝きを増すことを心に留めておくべきである。
あるときニューヨーク市にいた私は、夜のさなか、天に向かって階を重ねてそびえ立つ建物を見るよう促された。これらの建物は耐火であると保証され、所有者や建設者の栄光を示すために建てられていた。さらに高く、なお高くとこれらの建物はそびえ、その建造には最も高価な材料が用いられていた。これらの建物の持ち主たちは、「どのようにすれば最もよく神の栄光を現せるのか」と自問してはいなかった。主は彼らの思いの中にはなかった。
私は思った。「ああ、このように自分の財を投じている人々が、神がご覧になるように自分たちの歩みを見ることができたなら! 彼らは壮麗な建造物を次々と築いているが、宇宙の支配者の御目には、彼らの計画や企てがなんと愚かなことか。彼らは、心と思いのすべての力を尽くして、いかにして神の栄光を現すかを求めてはいない。これこそ人間の第一の務めであるのに、それを見失っているのだ。」
これらのそびえ立つ建物が建てられていくにつれ、所有者たちは、自己の欲を満たし隣人の羨望をかき立てるために使える金を持っていることに、野心に満ちた誇りで喜び勇んだ。彼らがそのように投じた金の多くは、強圧的な取り立てや、貧しい者を虐げて搾り取ることによって得られたものだった。天では、あらゆる商取引が記録されていることを彼らは忘れていた。不当な取引も、あらゆる詐欺行為も、そこに記されている。やがて、人々はその詐欺と傲慢のうちに、主がこれ以上は越えることを許されない一線に達し、ヤハウェの忍耐には限度があることを知るだろう。
次に私の前に現れたのは、火災の警報だった。人々は高くそびえ、耐火だとされている建物を見て、「完全に安全だ」と言った。だがこれらの建物は、まるでタールでできているかのように焼き尽くされた。消防車は破壊を食い止めるために何もできなかった。消防士たちは消火ポンプを操作することができなかった。
「主の時が来たとき、高慢で野心的な人間の心に何の変化も起こっていなければ、救うために強かったその御手が滅ぼすためにも強いことを、人々は知るようになる、と私は教えられている。地上のいかなる力も神の御手をとどめることはできない。神がその律法を無視したことと利己的な野心のゆえに人に報いを下すと定められた時が来るなら、どのような材料を用いて建物を建てても、それらを破壊から守ることはできない。」証言 第9巻、12、13。