前回の記事で取り上げた箇所は、こう述べていた。「黙示録18章の『聖霊の大いなる注ぎ』は、私たちが、神と共に働くとはどういうことかを経験によって知る光を受けた民となるまで、到来しない。」しかし約束はこうである。「私たちがキリストへの奉仕に全き、心からの献身をささげるとき、神はその事実を、限りない聖霊の注ぎによってお認めになる。」この「大いなる注ぎ」という呼称は、より小さな注ぎ(量られた注ぎ)の存在を示唆する。
2001年9月11日、黙示録18章の大いなる御使いが下って来たが、「教会の大多数」はその時も、そして今もなお「神と共に働く者ではない」。2001年9月11日から、ついに「キリストへの奉仕に対する全き、心からの献身」に達した一団がいるという事実を神が認められる時点までの間に、後の雨は「量られる」、生きている者の裁きが行われ、裁きは神の家から始まる。
黙示録第18章は二つの声を示しており、ホワイト夫人はそれが教会への二つの呼びかけであると教えている。第二の声(呼びかけ)は、間もなく出される日曜令のときに起こる、バビロンから出て来るようにとの呼びかけである。第一の声は2001年9月11日に到来した。そのときに始まった聖霊の注ぎは「量られた」ものであった。というのも、キリストは大いなる地震の時に彼らを旗印として掲げるにあたり、やがて聖霊を「量りなしに」注ぐことになる民をまず清める必要があったからである。その群れは、黙示録18章の第二の声が鳴り響く前に清められる必要があった。彼らこそ、そのメッセージを宣べ伝える者となるからである。
1844年春の最初の失望の時、プロテスタントは背教的なプロテスタントとなり、そのとき自らが待機の時に置かれていることを見いだした忠実な者たちは、かつて神の民ではなかった者たちから成る宮を表していた。2001年9月11日、黙示録18章の力ある御使いが降りてきて、神の終末の宮を清め、建て上げる働きの第一歩が始まったが、それはラオデキア的アドベンチズムの試練から始まった。2020年7月18日には、その試練の過程の第二段階が始まった。キリストの洗礼において古代イスラエルの分離の過程が始まった。というのも、キリストはそのとき最初の弟子たちを選び、彼らがその時代において彼が打ち立てていたキリスト教の宮の土台となったからである。
キリストの三年半に及ぶ宣教の初めに、キリストは神殿を清め、それを「ご自分の父の家」と呼ばれたが、宣教の終わりに、二度目にして最後に神殿を清められたときには、その宣告は「あなたがたの家は見捨てられて荒れ果てたままに残される」であった。先の契約の民は退けられ、ご自分の新しい契約の民が「ご自分の神殿」として立てられた。日曜法のとき、セブンスデー・アドベンチスト教会の法人組織は荒廃する。
預言者は言う。「私はもう一人の天使が天から降りてくるのを見た。大いなる権威を携え、その栄光によって地は照らされた。そして彼は力強い大声で叫んだ、『大バビロンは倒れた、倒れた。悪霊の住みかとなった』」(黙示録 18:1,2)。これは第二の天使によって与えられたのと同じメッセージである。バビロンが倒れたのは、「彼女がその淫行の怒りのぶどう酒をすべての国々に飲ませたからである」(黙示録 14:8)。そのぶどう酒とは何か――彼女の偽りの教義である。彼女は第四戒の安息日の代わりに偽りの安息日を世に与え、また、エデンでサタンが最初にエバに語った虚偽――魂の自然不死――を繰り返してきた。これに類する多くの誤りを彼女は広く広め、「人間の命令を教義として教えている」(マタイ 15:9)。
イエスが公の働きを始められたとき、神殿を不敬な冒瀆の汚れから清められた。その働きの終わり頃の行為の一つは、二度目の神殿の清めであった。それゆえ、世に警告を与える最後の働きにおいても、教会に対して二つの明確な呼びかけがなされる。第二の天使のメッセージは、「バビロンは倒れた、倒れた。あの大いなる都は、すべての国々に、その淫行による怒りのぶどう酒を飲ませたからである」(黙示録14:8)。そして第三の天使のメッセージの大声の叫びにおいては、天からこういう声が聞こえる。「わたしの民よ、彼女から出て来なさい。彼女の罪にあずからず、その災厄を受けることのないためである。彼女の罪は天にまで達し、神は彼女の不義を覚えておられるからである」(黙示録18:4,5)。Review and Herald, 1892年12月6日。
第一の神殿の清めは黙示録18章の第一の声と一致しており、第二の声は、神のもう一つの群れをバビロンから呼び出す大いなる叫びである。1節から3節は、ニューヨーク市の巨大な建物が倒壊したときに成就した。それは2001年9月11日に起こり、第一の神殿の清め、すなわち諸教会への二度の呼びかけの第一がなされた。第一の呼びかけは、聖霊が天から下り、古代イスラエルに対する試練が始まったキリストのバプテスマのときに始まった。1840年8月11日には、第一の神殿の清め、すなわち諸教会への二度の呼びかけの第一がミラー派運動に対してなされた。
その時、「後の雨」と十四万四千人の封印が、調査審判の最終場面と相まって始まった。その最終場面において、キリストの働きは、忠実な者たちの罪を「罪の書」から消し去ること、あるいは自らキリスト者であると公言する者たちの名を「命の書」から消し去ることとして表されている。その時期は「後の雨」の滴りの時期である。というのは、神は教会が清められているときにのみ、聖霊を限りなく注がれるからである。日曜法の時には、聖霊の注ぎは限りないものとなる。
「兄弟たちよ、準備の大いなる働きにおいて、あなたがたは何をしているのか。世と結びついている者は、世の型を受けて、獣の刻印を受ける備えをしている。自己を信頼せず、神の前にへりくだり、真理に従うことによって魂を清めている者たちは、天の型を受け、額に神の印を受ける備えをしている。布告が発せられ、印が押されるとき、彼らの品性は永遠に純潔でしみのないものとして保たれる。」『証言』第5巻、216ページ。
聖霊の働きは、世に罪と義と裁きとを悟らせることである。世が警告を受けることができるのは、真理を信じる者たちが真理によって聖められ、崇高で聖なる原則に従って行動し、神の戒めを守る者とそれを足で踏みにじる者との間の境界線を、高尚な意味において示しているのを見ることによってのみである。聖霊による聖化は、神の印を持つ者と、偽りの安息日を守る者との違いを明確にする。試練が来るとき、獣の刻印が何であるかがはっきり示される。それは日曜日を守ることである。真理を聞いた後でもなおこの日を聖なるものと見なして守り続ける者は、時と律法を変えようと考えた罪の人の印を帯びている。聖書訓練学校、1903年12月1日。
イザヤは、彼が押しとどめられている(stayeth)「荒い風」とも呼ぶ「東風の日」を、「測り」が始まる時点として指し示している。
節度をもって、それが芽を吹き出すとき、あなたはそれと論じるであろう。彼は東風の日に、その荒ぶる風をとどめる。 このことによってヤコブの不義は清められ、彼の罪を取り除くための実はすべてこれである。彼が祭壇のすべての石を、打ち砕かれて粉々になった石灰の石のようにするとき、林も像も立たない。 しかし、堅固な町は荒れ果て、住まいは見捨てられ、荒野のように残される。そこでは子牛が草を食み、身を横たえ、その枝を食い尽くす。 その枝が枯れると、折り取られ、女たちが来てそれらに火をつける。彼らは悟りのない民だからである。それゆえ、彼らを造った方は彼らをあわれまず、彼らを形づくった方は彼らに恵みを示さない。 その日には、主が川の水路からエジプトの流れに至るまで打ち払い、イスラエルの子らよ、あなたがたは一人ひとり集められる。 その日には、大いなるラッパが吹き鳴らされ、アッシリアの地で滅びに瀕していた者たちと、エジプトの地の追放された者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。 イザヤ書 27:6-13
「東風」は「タルシシュの船」を沈め、ツロの淫婦に裁きを下す力である。「東風」は王たちを恐れさせる力である。「東風」はエジプトに「blasting」という病害をもたらし、それが七年の飢饉を生み、その過程でヨセフとファラオは世界全体(エジプト)を隷属させた。また、エジプトからの解放の際にすべてを食い尽くした「いなご」をもたらしたのも「東風」であった。イスラム教は「東風」である。
聖書予言の改革運動は、各改革運動にはそれぞれ固有の主題があることを示している。十四万四千人の改革運動の主題はイスラムである。2001年9月11日、第三の災いのイスラムが地の獣を攻撃し、「二世」ジョージ・W・ブッシュは直ちに「東風」に抑えをかけた。ホワイト夫人の記録によれば、ニューヨーク市の巨大な建物が打ち倒されたその出来事において、黙示録18章1〜3節が成就した。これらの三節は、黙示録18章にある二つの声のうち第一の声を表している。第二の声は4節にあり、それはアメリカ合衆国における日曜法で始まる、バビロンから出よという呼びかけを示している。第三の災いのイスラムは、十四万四千人が封印されている間、黙示録7章の四人の天使によって抑えられている。
主なる神はねたむ神である。しかしこの時代においても、御自分の民の罪と背きに対して長く忍耐しておられる。もし神の民が御旨に従って歩んでいたなら、神のみわざは前進し、真理のメッセージは地の全面に住むすべての人々に運ばれていたであろう。もし神の民が神を信じ、御言葉を行う者となり、その戒めを守っていたなら、天を飛びながら、「四つの風を押さえよ、押さえよ。私が神のしもべたちの額に印を押すまで、地に吹きつけさせるな」と叫び、地に吹きつけようとしている四つの風を解き放とうとしていた四人の天使に向けたメッセージを携えて来る天使が現れることはなかったであろう。しかし、人々が古代イスラエルと同様に、不従順で、感謝せず、不敬虔であるがゆえに、すべての人が大声で宣べ伝えられる最後のあわれみのメッセージを聞くことができるよう、時は延ばされている。主の働きは妨げられ、印を押す時は遅らされている。多くの人はまだ真理を聞いていない。しかし主は彼らに聞いて悔い改める機会をお与えになり、神の大いなるみわざは前進していく。Manuscript Releases 第15巻 292頁
封印を受ける者たちは、日曜法以前に封印される。なぜなら、世界が警告を受け、したがってバビロンから出るように呼び出されるのは、日曜法の危機において神の印を持つ男女を見ることによってのみだからである。十四万四千人の封印は2001年9月11日に始まったが、封印の時は遅らされた。
すべての預言者は最後の世代に語りかけており、この箇所は直接、その最後の世代を指している。この最後の世代において、神の民は「神の勧めに従って歩む」ことをせず、そのため封印の時は妨げられ、遅らされた。それは、黙示録十一章に出てくる底知れぬ淵から上ってくる獣、すなわち二人の預言者を殺したその獣によって、妨げられ、遅らされた。フランス革命の時代におけるその獣は無神論であり、そしてそれは、いま世界に対峙している「woke-ism」を導入した者たちが Future for America の運動の中に持ち込んだ無神論的運動を象徴していた。そして Future for America は神の勧めに従って歩むことをやめ、現代的な同性愛アジェンダを推進する者たちの影響を、時の設定を推進する他の者たちと結びつける形で許し、封印の時を妨げるに至らせた。
私に啓示された多くの事柄が心に押し寄せ、ほとんど言葉にできない。それでも、私は黙ってはいられない。主は、同胞を支配する者として自らを据え、聖霊が退けた計画を実行しようとする人々に憤っておられる。神がこれらの者をお立てになっていないことを、あなたがたが見分けられなかったことに、私は言い表しがたいほど驚いている。この新しい秩序は天の是認を得ていないのだから、あなたがたは警戒すべきである。
生まれつきの心は、神のみわざに自分自身の汚れた、堕落させるような原則を持ち込んではならない。私たちの信仰の原則を隠してはならない。第三の天使のメッセージは、神の民によって宣べ伝えられるべきである。それは大いなる叫びへとふくれ上がるべきである。主はご自身のみわざを締めくくられる時をお定めになっている。しかし、その時はいつなのか。終わりの時代に宣べ伝えられるべき真理が、すべての国々への証として出て行くとき、そのとき終わりが来る。もしサタンの力が神の宮そのものの中に入り込み、思いのままに事を操ることができるなら、備えの時は引き延ばされるだろう。
ここに、神がその民への祝福のメッセージを託して遣わされた人々に反対するために起こされた運動の秘密がある。これらの人々は憎まれた。その人々も神のメッセージも、キリストご自身が初臨のときに憎まれ、蔑まれたのと同様に、まことに蔑まれた。責任ある地位にある人々は、サタンが示しているのとまさに同じ性質を現してきた。彼らは人々の思いを支配し、理性や才能を人間の管轄のもとに置こうとしてきた。神の知識と知恵を持たず、また聖霊の導きのもとでの経験もない人々の支配下に、神のしもべたちを置こうとする企てがあった。本来なら日の目を見るべきではなかった原則が生み出された。その私生児は、命の最初の息をしたとたんに窒息させられるべきだった。限りある人間は、神と真理、そして主に選ばれた使者たちに対して戦いを仕掛け、敢えて用いるあらゆる手段でその働きを妨げてきた。どうか考えてみなさい。神のメッセージを軽んじ、そして律法学者とパリサイ人のように、神がその民に必要な光と真理を示すために用いられたまさにその人々を蔑んできた者たちの知恵や計画に、いかなる徳がもたらされたのかを。『1888年資料』、1525。
2001年9月11日に始まった封印の時期は、「神の宮そのもの」にサタンの代表者たちが入ることを許されたため、妨げられた。ここで留意すべき点は、1798年から1844年にかけてミラー派の神殿が築かれ、1844年10月22日には契約の使者が突然その神殿に来られた、ということである。神殿と軍勢は1260年間にわたって教皇制によって踏みにじられていたが、教皇制が致命的な傷を受けたとき、キリストはミラー派の神殿を築く働きを始められた。そして、いくつかの証言によれば、その神殿の象徴は四十六という数である。
1840年8月11日、黙示録10章の天使が降臨し、プロテスタントに対する審判が始まった。その歴史は寸分違わず繰り返される。
聖書では、「東風」がタルシシュの船を沈め、大いなる都ツロを倒し、王たちと商人たちに「わざわいだ、わざわいだ」(ああ、ああ)と三たび叫ばせる。しかし、私たちが取り上げているイザヤ書の箇所では、「東風」の日とは、神が「その荒々しい風をとどめられる」日である。この箇所では「東風」は押しとどめられ、第三の天使の働きを妨げないようにされている。その働きは、後の雨の時に成し遂げられる働きである。この箇所で、押しとどめられている「東風」という主題は、後の雨、第三の天使の働き、そしてバビロンにいる神のほかの子らを集め出すことを指し示している。その時期には、四人の天使が四つの風を押さえており、十四万四千人への封印の時である。
この後、わたしは四人の御使いが地の四隅に立ち、地の四つの風を押さえて、風が地にも海にも、またどの木にも吹きつけないようにしているのを見た。さらに、日の出る方から上って来る別の御使いを見た。彼は生ける神の印を持っており、大声で、地と海に害を加える権威を与えられている四人の御使いに叫んで言った。「わたしたちが、わたしたちの神のしもべたちの額に印を押し終えるまで、地にも海にも木々にも害を加えてはならない。」ヨハネの黙示録 7:1-3
「東風」が抑えられること、「怒れる諸国民」が抑えられること、そして「四つの風」が抑えられることは、すべて後の雨の期間に起こる。なぜなら、神の印が神の民に押されるのは後の雨の期間だからである。四人の天使によって抑えられている四つの風は、イスラム教を象徴している。
天使たちは四方の風を押さえている。それは、つなぎを断ち切って全地を駆け抜け、その行く先々に破壊と死をもたらそうとする怒れる馬として表されている。
「永遠の世界のまさに間際にありながら、なお眠っていてよいのでしょうか。鈍く、冷たく、死んだようであってよいのでしょうか。ああ、私たちの諸教会において、神の御霊と息吹とがその民に吹き入れられ、彼らが自分の足で立って生きる者となることができますように。私たちは、その道が狭く、門が細いことを見なければなりません。しかし、ひとたびその狭き門を通るなら、その広がりには限りがありません。」『Manuscript Releases』第20巻、217頁。
これらの現実については次の記事でさらに考察する。というのも、神が永遠の王国を打ち立てるのは、「これらの王たちの日」、すなわち聖書の預言における第八の王国(「七つに属する」王国)によって表される時だからである。
これらの王たちの時代に、天の神はひとつの王国を打ち立てられる。それは決して滅びることがなく、その王国はほかの民に渡されることもない。かえって、それはこれらすべての王国を打ち砕いて滅ぼし尽くし、とこしえに立つ。あなたが見たとおり、人手によらずに山から切り出された石が、鉄、青銅、粘土、銀、金を打ち砕いた。大いなる神は、この後に起こることを王にお示しになったのである。この夢は確かであり、その解き明かしは確実である。ダニエル書 2章44、45節。