前回の記事において、私たちは、第一の災いである第五のラッパの預言的特徴を、まもなく到来する日曜法と一致させた。第五のラッパを、最初のものが最後のものを例示するという観点から、最後の三つのラッパの第一として考えることは、第一の災いにおけるイスラムの預言的役割を、黙示録十一章の地震と一致させるものである。私たちが安息日の集会でこの記事について論じた翌日、私は一人の友人から電子メールを受け取ったが、その友人もまた、第二の災いである第六のラッパを、まもなく到来する日曜法と一致させようとしていた。最後の三つのラッパは三つの災いであるから、これは妥当な取り組みである。

また私は見た。そして、一人の御使いが天の中空を飛びながら、大声でこう言うのを聞いた。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいだ。なおラッパを吹こうとしているほかの三人の御使いたちのラッパの声のゆえに、地に住む者たちには。」黙示録 8:13

最後の三つのラッパは、七つのラッパの中にあって一つの独自の象徴であり、それは最後の三つの教会が最初の四つとは区別されているのと同様であり、また最後の三つの封印が七つの封印の中で区別されているのと同様である。この預言的真理は、これまで幾年にもわたってしばしば取り上げられてきた。第一の禍いと第三の禍いをアルファとオメガの象徴として考察することによって生じる光を考慮することに加えて、われわれはまた、三つの禍いを預言の三重の適用として考慮しなければならない。

預言の三重の適用は、第一および第二の禍いのすべての預言的特質が、第三の禍いにも存在することを明らかにしている。第一の禍いはアラビアのイスラムであり、第二の禍いはトルコのイスラムであった。第一の禍いは人々を「苦しめる」ためのものであり、第二の禍いは人々の三分の一を「殺す」ためのものであった。

第一の禍いの苦しみ

また、彼らには、人々を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることが許された。その苦しみは、さそりが人を刺すときの苦しみのようであった。……彼らはまた、さそりのような尾を持ち、その尾には針があった。そして彼らの力は、五か月の間、人々を害することにあった。黙示録 9:5, 10.

第二の災いの死

そして、四人の御使いは解き放たれた。彼らは、一時と、一日と、一か月と、一年とのために備えられていて、人類の三分の一を殺すためであった。……この三つによって、すなわち彼らの口から出る火と煙と硫黄とによって、人類の三分の一は殺された。黙示録 9:15, 18.

殺されなかった人々の三分の二は、悔い改めなかった。

しかし、これらの災害によって殺されなかった残りの人々は、自分たちの手のわざを悔い改めず、そのために悪霊ども、また金、銀、青銅、石、木で造られた偶像――見ることも、聞くことも、歩くこともできないもの――を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの殺人についても、魔術についても、不品行についても、盗みについても、悔い改めなかった。黙示録 9:20, 21.

七つのラッパは七つの終わりの災いを予表しており、また第二十節において、ラッパは災いと呼ばれている。合衆国は、竜、獣、および偽預言者から成る三重の連合の三分の一であり、日曜法において第六の王国として殺される。その死は偽りの礼拝のゆえにもたらされたのであり、それは「彼らの手のわざ」、すなわち「悪霊どもと、金、銀、青銅、石、および木の偶像とを拝むこと」によって、また「殺人」「魔術」「淫行」および「盗み」によって象徴されている。

日曜礼拝によって予表される偽りの礼拝は、悔い改めるべき「原因」である。しかし、彼らは悔い改めなかったので、その「結果」は、イスラムのいなごによってもたらされる苦痛と死である。人々の三分の一、すなわちアメリカ合衆国は日曜法において殺されるが、残りの三分の二は悔い改めない。

災いと御使いたち

第一の災いと第二の災いは、ミラー派の歴史における第一の天使および第二の天使に対応しており、その歴史は十四万四千人の歴史の中で一字一句に至るまで繰り返される。十四万四千人の歴史は第三の天使の歴史であり、第三の災いに対応している。ちょうどミラー派の歴史の道標が十四万四千人の歴史の中で繰り返されるように、第一および第二の災いの道標もまた、第三の天使の歴史の中で繰り返されるのである。

「第一と第二の使命は1843年と1844年に与えられ、私たちは今、第三の使命の宣布のもとにある。しかし、この三つの使命は、なおすべて宣布されなければならない。真理を求めている人々に、これらが繰り返し語られることは、以前にもまして今なお不可欠である。私たちは、筆と声とをもってこの宣布を響かせ、その順序と、私たちを第三天使の使命へと導く預言の適用とを示さなければならない。第一と第二なしに第三はあり得ない。これらの使命を、出版物によって、また講演によって、預言的歴史の流れの中に、すでにあった事柄と、やがて起こる事柄とを示しつつ、私たちは世界に伝えなければならない。」『セレクテッド・メッセージズ』第2巻、104頁。

預言を学ぶ者としての私たちの務めは、第一天使と第二天使の使命を第三天使の使命の中へ結合することである。最初の二つの使命がなければ、第三の使命は存在しえない。なぜなら、「第一と第二なくして第三はありえない」からである。これは「順序」という観点において真実である。というのは、もし第一と第二が存在しないなら、第三は実際には第一となるからである。またこれは「内容」という観点においても真実である。なぜなら、第一と第二の預言的特徴が、第三の特徴を規定するからである。数学的にも、第一と第二なくして第三は存在せず、預言的にも、第一と第二の道標が除かれるなら、第三天使のうちに道標は存在しない。

「神は、黙示録14章の諸使命に預言の系列の中でその位置をお与えになったのであり、それらの働きは、この地上の歴史の終結に至るまでやむことがあってはならない。第一天使と第二天使の使命は、なおこの時代のための真理であり、後に続くこの使命と並行して進められるべきである。第三天使は大いなる声をもってその警告を宣言する。『これらの事の後、』とヨハネは言った。『私は、もうひとりの御使いが大いなる権威を帯びて天から下って来るのを見た。そして地はその栄光によって明るくされた。』この照明のうちに、三つすべての使命の光が結合されている。」The 1888 Materials, 803, 804.

私たちの務めは、ミラー派の運動において「預言的歴史の流れの中で、すでにあった事柄」を示し、また十四万四千人の運動において「やがてあるであろう事柄」を示すことである。

「主は今や、その不義のゆえに世を罰しようとしておられる。主はまた、彼らに与えられた光と真理を拒んだゆえに、諸宗教団体を罰しようとしておられる。第一、第二、第三天使の使命を結合した大いなる使命が、世に伝えられなければならない。これこそ、われわれの働きの主題である。」『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』第7巻、950頁。

第一天使と第二天使の使命の結合こそ、黙示録十八章の天使が降るときに地を照らすものである。彼女は次のように述べた。「『これらのことの後に』とヨハネは言っている。『私は、もう一人の天使が大いなる権威をもって天から下って来るのを見た。そして地はその栄光によって明るくされた。』この照明においては、三つの使命すべての光が結合されている。」「地」が「照らされる」ことに関連するこの「照明」は、「三つの使命すべての光が結合される」ときに成し遂げられる。ミラー派の歴史を十四万四千人の歴史と二重に並行させることによって、三つの使命を線の上に線をもって結合する働きは、三つの災いについてもまた成し遂げられなければならない。

第二の天使によって宣言されたバビロンの倒壊は、第一の天使の使命から切り離して考えることはできない。第一の天使の使命は、1843年におけるキリストの再臨を特定したのであり、その使命が成就しなかったとき、その使命のもたらした結果がプロテスタント諸教会の倒壊を生じさせた。その結果が第二の天使であり、原因は第一の天使の不成功であった。もし第一の天使が存在しなかったなら、第二の天使によって宣言されたバビロンの倒壊も存在しなかったであろう。原因と結果とを結び付けていた要素は「時」であった。その「時」(1843年)は現実のものとならず、その不成就が「結果」を生み出した。「原因」は、ミラーが1843年ごろに終わると誤って結論した三つの預言をそのように特定した誤りであった。すなわち、1335、2300、そして2520年の三つの預言であり、ミラーはそれらが1843年にキリストが雲のうちに来られることによって終結すると信じていた。ミラーが誤解していた時に関する預言が成就しなかったとき、それはプロテスタントが第一の天使の使命を拒む理由を与え、こうして第二の天使が到来した。第一の天使は「原因」であり、第二の天使は「結果」であった。

第一天使と第二天使のメッセージは、切り離すことができない。なぜなら、それらは預言的時によって預言的に結び付けられているからである。第一の災いと第二の災いもまた、「時」によって預言的に結び付けられている。百五十年の苦痛を示す第一の災いの時の預言は、人を殺す第二の災いの三百九十一年十五日の時の預言が始まる、まさにその地点で終わる。時の預言は、第一と第二の災いを結び付け、また第一天使と第二天使のメッセージをも結び付ける。

第一の災いと第二の災いに関する時の預言の成就は、第一天使の使命に力を与え、また黙示録十章の天使を、その栄光をもって全地を照らすために下らせた。第一天使について、ホワイト姉妹は、自らが「彼の使命は、その栄光をもって地を照らし、来たるべき神の怒りについて人に警告することであると告げられた」と記している。これは、黙示録十八章の第三の天使と全く同一の使命である。

「第三天使の使命の宣布においてこれと結合する天使は、その栄光をもって全地を照らすのである。ここには、世界的規模に及ぶ、かつてない力を伴う働きが予告されている。1840年から1844年にかけての再臨運動は、神の力の栄光ある顕現であった。第一天使の使命は世界のあらゆる伝道地にまで携えられ、またある国々においては、十六世紀の宗教改革以来、いかなる地においても見られたことのないほどの大いなる宗教的関心が呼び起こされた。しかし、これらのことは、第三天使の最後の警告のもとに起こる力強い運動によって、さらに凌駕されるのである。

その働きは、ペンテコステの日のそれに類するものであろう。福音の開始における聖霊の注ぎによって「先の雨」が与えられ、尊い種が芽生えるようにされたように、その終わりには、収穫を成熟させるために「後の雨」が与えられるのである。「われらは知らん、主を知ることを切に求めて知るに至らん。その現れ出づることは暁のごとく備えられ、主は雨のごとく、地を潤す後の雨、また先の雨のごとく、われらに臨まれる。」ホセア 6:3。「シオンの子らよ、それゆえ喜べ。あなたがたの神、主にあって楽しめ。主はあなたがたに先の雨をほどよく与え、また先の雨と後の雨とを、あなたがたのために降らせてくださるからである。」ヨエル 2:23。「神は言われる、終わりの日に、わたしの霊をすべての肉なる者に注ぐであろう。」「そして、主の御名を呼び求める者は皆、救われるであろう。」使徒行伝 2:17, 21。

「福音の大いなる働きは、その開始を特徴づけた神の力の顕現よりも少ない顕現をもって終わるのではない。福音の開始において前の雨の注ぎによって成就した預言は、その終わりにおいて後の雨によって再び成就するのである。ここに、使徒ペテロが次のように語ったときに待ち望んでいた『刷新の時』がある。『だから、悔い改めて立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ、主のみ前から刷新の時が来て、主はイエスを遣わしてくださる。』使徒行伝 3:19, 20。」『各時代の大争闘』611頁。

第一の災いと第二の災いの時の預言の成就は、1840年に御使いがその栄光をもって地を照らすために降ることをもたらし、それによって第一の御使いの使命に力を与えた。そして、第三の災いの成就は、9・11に御使いがその栄光をもって地を照らすために降ることをもたらし、それによって第三の御使いの使命に力を与えた。地が照らされることは、平行的適用――すなわち、行の上に行を重ねること――において、二つの運動が結び合わされることによって達成される。三つの災いの使命こそが、三人の御使いの使命に力を与えるのである。それらは二つの線として織り合わされている。一つは内的なものであり、もう一つは外的なものである。三人の御使いは神の民の働きを表しており、彼らの働きは三つの災いの成就によって力づけられる。外的なものはイスラムとその預言的働きであり、内的なものは御自身の民のうちにおられるキリスト――栄光の望み――である。この理由のゆえに、終わりの日における彼の十二人の息子たちの象徴に関するヤコブの預言において、ユダはろばにつながれているのである。

ヤコブはその子らを呼んで言った。「集まれ。あなたがたの終わりの日に起こることを、わたしはあなたがたに告げよう。集まって聞け、ヤコブの子らよ。あなたがたの父イスラエルに聞き従え。……ユダよ、あなたは兄弟たちにほめたたえられる者。あなたの手は敵の首にかかり、あなたの父の子らはあなたの前にひれ伏す。ユダは若い獅子。わが子よ、あなたは獲物から上って来た。彼は身をかがめ、獅子のように、また雄獅子のように伏す。だれがこれを奮い立たせることができようか。王笏はユダを離れず、立法者の杖はその足の間を離れない、シロが来るときまで。もろもろの民の従うのは彼である。そのろばの子をぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を最上のぶどうの木につなぐ。彼はその衣をぶどう酒で洗い、その着物をぶどうの血で洗う。彼の目はぶどう酒によって赤く、その歯は乳によって白い。」創世記 49:1, 2, 8–12.

キリストはユダ族の獅子であり、御自分の衣を血で洗われた方であり、また、「ろばの子」に預言的に結び付けられている「えり抜きのぶどうの木」である。三つの禍いの外的なメッセージは、三天使の内的なメッセージに結び付けられている。第一天使と第二天使は第三天使と並行して進み、第一の禍いと第二の禍いもまた第三の禍いと並行して進まなければならない。

ニネベの戦いは、まもなく到来する日曜法、すなわち第三の災いが突如として到来する黙示録十一章の地震において、ローマ・カトリックの致命的な傷が癒やされるとき、イスラムの暗闇をこの世界にもたらす「鍵」である。それはその地震の「時」に到来する。

その時、大きな地震が起こり、都の十分の一が倒れた。そして、その地震で七千人が殺され、残った者たちは恐れおののいて、天の神に栄光を帰した。第二のわざわいは過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。黙示録 11:13, 14

日曜法は、世界にとっての獣の像の試みの時を開始させ、ニネベの戦いは、第六の王国の征服を示す鍵である。すなわち、イザヤ二十三章の成就として歌を歌い始めるとき、ツロの淫婦が覚えられるのである。獣の像の試みは、人の永遠の運命が決定される試験であり、その決定は恩恵期間が閉じる前になされる。恩恵期間は、ミカエルが立ち上がるとき、世界に対して閉じる。黙示録第十三章十二節以下における世界のための獣の像の試みの時は、合衆国における獣の像の試みの時に予表されている。

「宗教的自由の国であるアメリカが、良心を強制し、人々に偽りの安息日を尊ばせることにおいて教皇権と結合するとき、全地球上のあらゆる国の民も、その模範に従うよう導かれるであろう。」『証の書』第6巻、18頁。

合衆国における獣の像の試練の時は、『黙示録』第七章の十四万四千人を分け、かつ封印する。そして、世界に対する獣の像の試練の時は、『黙示録』第七章の大いなる群衆を封印する。

「諸外国はアメリカ合衆国の模範に従うであろう。彼女が先導するとはいえ、同じ危機が、世界のあらゆる地域にいるわれわれの民に臨むであろう。」『証の書』第6巻、395頁。

ニネベの戦いによって表される鍵は、世界にとっては像の試験時の始まりを示すと同時に、アメリカ合衆国にとっては像の試験時の終わりを示している。ニネベの戦いによって表される一つの鍵は、底知れぬ穴を開き、それによって世界において、いなごとして表象されるイスラムの洪水をもたらす。真夜中の叫びの終わりにおけるその鍵は、真夜中の叫びの始まりに、アメリカ合衆国において、まさに同じ穴を開く一つの鍵によって予型されている。

アメリカ合衆国における鍵は、レビ記二十三章においてラッパの祭りとして表されており、それは真夜中の叫びの宣布の開始に際して、ろばが解かれる時である。その鍵が回されるのは、ナッシュヴィルへの火の玉が到来する時である。ラッパの祭り、そしてイスラムが解き放たれる時のナッシュヴィルへの攻撃は、日曜法におけるニネベの戦いを予表している。

日曜法は「真夜中」の叫びの宣布の終結である。なぜなら、その時その叫びは「大いなる」叫びへと変わるからであり、またその期間の始まりは、預言的必然性によって終わりを例証しなければならないからである。第一の災いにおいて、イスラムはローマの軍勢を百五十年間苦しめることになっていたが、そのローマはアメリカ合衆国を予表している。鍵(ニネベの戦い)は、ラッパの祭りがそうであるように、真夜中の叫びの宣布の始まりを示している。レビ記二十三章においては、ラッパの祭りとペンテコステとの間に十五日があるが、それはまた仮庵の祭りでもある。アメリカ合衆国における獣の像の試みの時のその十五日は、第一の災いにおける百五十年の苦難に対応している。十五は百五十の十分の一である。

その十五日(百五十年)は、三百九十一年と十五日が始まるときに終わる。1844年10月22日以降、預言的時はもはや適用されないので、苦悶の百五十年は、ラッパの祭りをもって始まり、その五日後に旗の昇揚が続き、さらにその五日後に贖罪日の審判が続き、その後さらに五日を経てペンテコステ的注ぎが到来するという、レビ記二十三章の十五日の象徴である。

そこで、「人類の三分の一を殺すために備えられていた時と日と月と年」が始まる。ここでいう「時」とは、大いなる地震の時、すなわち日曜日法である。「日」とは、ラオデキヤの状態にあるセブンスデー・アドベンチスト教会が主の口から吐き出されるときの、主の報復の日である。

彼らは計略を欠いた国民であり、そのうちには悟りがない。ああ、彼らに知恵があり、これを悟り、自らの終わりを思い見るならよかったのに。彼らの岩が彼らを売り渡し、主が彼らを閉じ込められたのでなければ、どうして一人が千人を追い、二人が一万人を敗走させることができようか。まことに、彼らの岩はわれらの岩のようではなく、敵自身でさえそのことの証人である。彼らのぶどうの木はソドムのぶどうの木であり、ゴモラの野から出たものである。そのぶどうは苦よもぎのぶどう、その房は苦い。彼らのぶどう酒は竜の毒、まむしの残酷な毒である。これはわたしのもとに蓄えられ、わたしの宝の中に封じ込められているのではないか。復讐と報復とはわたしのもの。定めの時に彼らの足は滑る。彼らの災いの日は近く、彼らに臨むことは速やかに来るからである。主はその民をさばき、そのしもべたちをあわれまれる。彼らの力が尽き果て、閉じ込められた者も残された者もいないのをご覧になるとき、そうされるのである。そして主は言われる、「彼らの神々はどこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにいるのか。」申命記 32:28–37。

地震の「時」は、「彼らの災いの日」である。それは、終わりの日に増し加えられる知識を理解していないアドベンチズムの中にいる者たちに対する裁きである。彼らは自分の家を建てるための土台として偽りの岩を選んだのであり、実のところ、彼らの岩は砂であった。

「警告はすでに与えられている。1842年、1843年、1844年にその使命が到来して以来、私たちが築き続けてきた信仰の土台を揺るがすようないかなるものも、入り込むことを許してはならない。私はこの使命のうちにあり、それ以来ずっと、神が私たちに与えてくださった光に忠実に、世に向かって立ってきた。私たちは、日ごとに切なる祈りをもって主を求め、光を求めつつ自らの足を据えたその土台から、足を離そうとはしない。あなたがたは、私が神から与えられたその光を手放すことができるとでも思うのか。それは万代の岩のようであるべきである。それは与えられて以来、ずっと私を導いてきた。」Review and Herald, 1903年4月14日。

「月」は第一の月を表している。

それゆえ、シオンの子らよ、喜べ。あなたがたの神、主にあって楽しめ。主はあなたがたに初めの雨を程よく与え、またあなたがたのために雨を降らせられる。すなわち、初めの雨と後の雨とを、第一の月に。打ち場は麦で満ち、酒ぶねと油ぶねとは新しいぶどう酒と油とであふれる。わたしは、あなたがたのうちに送ったわたしの大軍、いなご、かみ食らう虫、若いいなご、食い荒らす虫が食い尽くした年々を、あなたがたに償う。あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたに不思議なわざを行われたあなたがたの神、主の御名をほめたたえる。わたしの民はとこしえに恥を見ることがない。こうして、わたしがイスラエルのただ中におり、わたしがあなたがたの神、主であって、ほかにはいないことを、あなたがたは知る。わたしの民はとこしえに恥を見ることがない。ヨエル 2:23–27。

日曜法の「時」に、第三の禍いであるイスラムが不意に襲いかかり、ラオデキヤ的再臨信仰は、蛇の岩を頼みとしていたゆえに恥を受ける。その時、第一の月に、後の雨が清められた民の上に注がれる。その時点で、ナッシュビル以後の苦痛ののちに、合衆国は殺される。諸都市の滅亡であるその苦痛が始まり、日曜法の時に、合衆国は聖書預言の第六の王国として終わりを迎え(殺され)、世に対する獣の像の試みの時を導き入れる。その時は、第八の王国が助ける者なくしてその終わりに至り(殺される)時に終結する。

ユーフラテス川

ユーフラテス川は象徴的にイスラムと結び付けられており、ユーフラテスとは「実り豊かな」、あるいは「ほとばしり出る」を意味する。第二の災いにおいて、ユーフラテスに繋がれている四つの風が解き放たれる。

第六の御使いがラッパを吹いた。すると私は、神の御前にある金の祭壇の四つの角から出る一つの声を聞いた。その声は、ラッパを持っていた第六の御使いに言った、「大いなる川ユーフラテスに縛られている四人の御使いを解き放て。」すると、その四人の御使いは解き放たれた。彼らは、時と日と月と年のために備えられていて、人類の三分の一を殺すことになっていた。黙示録 9:13–15。

ユーフラテス川は約束の地の東の境を表しており、イスラムは預言における「東の子ら」である。彼らの預言的特徴は、ハガルがサラによって抑えられたことに始まる、抑制され、そして解き放たれることである。

神は言われた。「いや、あなたの妻サラが、まことにあなたに男の子を産むであろう。あなたはその名をイサクと呼ばなければならない。わたしは彼と、また彼の後の子孫と、永遠の契約として、わたしの契約を立てる。イシュマエルについても、あなたの願いを聞き入れた。見よ、わたしは彼を祝福し、彼を多くの子を産む者とし、彼を大いに増し加える。彼は十二人の君侯を生み、わたしは彼を大いなる国民とする。」創世記 17:19, 20

イシュマエルは実を結ぶ者とされ、またユーフラテスは実り豊かであることを意味する。第一の禍いの苦しみの百五十年の預言の終結において、イスラム教が人類の三分の一を殺すために解き放たれたとき、一時、一日、一月、一年の預言が始まった。日曜法において、聖書預言の第六の王国は殺され、しかもそれは現代のローマの三分の一である。イスラム教は、第一天使の使命の力ある宣布の時である1840年8月11日に抑制されていたが、第三天使の使命の力ある宣布の時である9/11に解き放たれた。

9/11において、十四万四千人への印が押される働きが、死者の審判の終結とともに始まり、生ける者の審判が開始された。第三の災いとしてのイスラムが9/11に解き放たれたとき、それは直ちに、印を押す期間のあいだ抑制された。

「この幻は1847年に与えられたものであり、その当時、安息日を守っていたアドベントの兄弟たちはごく少数であった。そして、その中でも、その遵守が神の民と不信者との間に一線を画するほど十分に重要であると考えていた者は、さらに少数であった。今や、その幻の成就が見え始めている。ここに述べられている『その悩みの時の始まり』とは、災いが注がれ始める時を指すのではなく、それらが注がれる直前の短い期間、すなわちキリストが聖所におられる間のことである。その時、救いの働きが終結に向かっている間に、悩みが地上に臨みつつあり、諸国の民は怒るであろうが、それでも第三天使の働きを妨げないように抑えられている。その時、『後の雨』、すなわち主の御前から来る回復が臨み、第三天使の大いなる声に力を与え、また聖徒たちを、七つの最後の災いが注がれる期間に耐えうるよう備えさせるのである。」『初代文集』85頁。

恩恵期間の終結に至る「短い期間」とは、「キリストが聖所におられ」、救いの「働き」を「終えつつある」期間である。

「キリストの犠牲と祭司職の影であった表象的制度において、聖所の清めは、年ごとの奉仕の循環の中で大祭司によって行われる最後の務めであった。それは贖いの締めくくりの働き、すなわちイスラエルから罪を取り除き、またこれを除き去ることであった。それは、天におけるわれらの大祭司の奉仕における最後の働き、すなわち天の記録に登録されている御民の罪を取り除き、あるいはぬぐい去ることを予表していた。この務めには調査の働き、すなわち裁きの働きが含まれており、またそれは、力と大いなる栄光とをもって天の雲に乗って来られるキリストの来臨に直ちに先立つ。なぜなら、主が来られる時には、すべての事案はすでに決定されているからである。イエスはこう言われる。『見よ、わたしはすぐに来る。わたしの報いはわたしと共にある。それぞれに、その業にしたがって報いるためである。』黙示録 22:12。この裁きの働き、すなわち再臨に直ちに先立つこの働きこそ、黙示録 14:7 の第一天使の使命において宣言されているものである。『神を恐れ、神に栄光を帰せよ。神の裁きの時が来たからである。』」『各時代の大争闘』352頁。

「御民の罪のぬぐい去り」は、生ける者たちの審判の期間に起こる。

それゆえ、悔い改めて立ち返りなさい。あなたがたの罪がぬぐい去られるためである。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたに前もって宣べ伝えられていたイエス・キリストを、主が遣わしてくださるためである。この方は、万物更新の時まで、すなわち、神が世の初めからそのすべての聖なる預言者たちの口を通して語られたことが成就するその時まで、天が受け入れていなければならないのである。使徒行伝 3:19–21.

悔い改めるためには、人は生きていなければならず、そしてペテロがここでその完全な意味において言及している悔い改めは、「元気を回復する時」が到来するときに起こる。休息と元気の回復は後の雨であり、それは黙示録十八章の力ある天使が、その栄光をもって地を照らすために降って来たときに始まった。その力ある天使はまた、イスラムが抑制されたときに降った一八四〇年八月十一日の第一天使でもあり、その天使は「イエス・キリストにほかならぬお方」であった。「元気の回復」と「万物を回復する時代」は、イスラムが諸国を怒らせるために解き放たれることによって始まり、その後、一四万四千人が印せられている間に抑制される。9/11は、後の雨である元気の回復と休息の時代を画するものであり、またそれは「万物の回復」の期間を画するものである。教会において回復されるもの、すなわち、一八六三年の反逆以来、戦う教会であったが、やがて勝利の教会となるその教会において回復されるものは、一四万四千人の印する時である。

戦う教会は麦と毒麦との混成であり、勝利した教会は五旬節の初穂の麦のささげ物である。9・11は、バラムが雌ろばを打った最初の時であり、バラム(合衆国)はその不意の攻撃の直後、ただちに全世界的な対テロ戦争を開始した。バラムの雌ろばは、第三の災いを構成し、かつ三天使の使命と並行して進行する三つの災いを表している。したがって、この三つの災いは、預言的に三天使の三つの段階によって支配されている。ゆえに、バラムが二度目に雌ろばを打つ時、それは倍加であり、第二の段階においては常にそうである。古代の文字どおりの栄光の地と現代の霊的な栄光の地という二つのぶどう園の間で、イスラムは2023年10月7日にイスラエルを打ち、その直後にガザの上に抑止が置かれ、そして次にイスラムはナッシュビルを打つであろう。

ナッシュヴィルにおける打撃は、バラムの証言においてぶどう畑の間で起こる二つの奇襲のうちの第二である。ナッシュヴィルは、真夜中の叫びのメッセージが第二天使に合流する時の、預言的道標を示している。真夜中の叫びのメッセージは、キリストの二人の弟子が、(第二天使のメッセージを表象するものとして)凱旋入城の初めにろばを解く時に始まる。その行列は最終的に十字架へと導き、十字架は、やがて到来する日曜法の地震を表している。その時、淫婦ローマは、合衆国の歴史において彼女が忘れ去られた後に、聖書預言の第六の王国に打ち勝つのである。

娼婦が日曜法の時にその歌を歌い始めるとき、ニネベの戦いは反復されており、そしてその鍵はひねられて、全世界における獣の像の試みの時の開幕を示すことになる。ニネベの戦いは真夜中の叫びの宣言の終結であり、それはその後、第三天使の大いなる叫びへと転ずるのである。その期間の始まりは、ナッシュビルへの奇襲によって画されるが、これもまたニネベの戦いによって予表されていることになる。なぜなら、イエスはアルファでありオメガであられるゆえに、常に初めをもって終わりを例示されるからである。ナッシュビル攻撃は、預言上の必然として、イスラムが地を暗闇で満たすことを許すローマのペルシャに対する勝利の諸要素を含むであろう。ドナルド・トランプはローマの像の象徴であるから、彼はナッシュビル打撃に関連するニネベの戦いにおいて勝利するであろうが、イスラムの洪水に抵抗する彼の力は、すでに消耗していることになる。

ロナルド・レーガンが1989年に勝利を収めることに成功した戦いは、第二次世界大戦の終結時に始まった冷戦であった。トランプの冷戦はパニウムの戦いであり、それは日曜法における第三次世界大戦へと導くものであって、そのことはアクティウムの戦い、またニネベの戦いによっても予表されてきた。パニウムの戦いによって表されるトランプの冷戦は、1989年にベルリンの「壁」が打ち倒されたことによって予表されたように、合衆国憲法における教会と国家の分離の「壁」を打ち倒すことへと至る。

ナッシュヴィルは、バラムのろばがバラムの足を壁に押しつぶす地点を表しており、それによって、壁における不具化を示している。真夜中の叫びの期間は、合衆国憲法における分離の壁に激突する出来事をもって始まり、それによって、獣の像(教会と国家の結合)の据え立ての開始がしるしづけられるのである。その出来事は、獣の像の据え立ての終わりにおける分離の壁の取り壊しを予表する道標でもある。ドナルド・トランプは、1798年の外国人法および治安維持法によって予表された日曜法における「語ること」を予表する大統領令をもって、預言的に語るのである。彼はそこで、民主党のグローバリストたちと、共和党内のRINOグローバリストというその対応物とを打ち破るであろう。ニネベの戦いにおいてペルシアによって予表された敵に対する彼の勝利は、政治戦争の両陣営から、国土に広がるイスラムのいなごに抵抗するために必要な力を奪い去るであろう。トランプの押しつぶされた足は、真夜中の叫びの宣布の開始における壁であり、それは終わりにおける壁へと導くのである。

次の記事において、これら三つの禍いについての考察を続けることにする。