エゼキエル書における警告のメッセージは、「包囲のしるし」である。包囲が始まったとき、エゼキエルの妻は死に、エゼキエルは彼女の死を悲しんではならないと命じられた。彼女の死は、彼がその死を悼まなかったことと相まって、包囲と、間近に迫ったエルサレムの滅亡を象徴していた。彼の行為と彼女の死は、警告のしるしを表しており、それはイエスによって「荒廃をもたらす憎むべきもの」として提示された、将来の警告のしるしを予表している。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られた荒らす憎むべきものが聖なる所に立つのを見たならば、(読む者は悟れ)。マタイ24:15。

ローマ軍の軍旗が神殿の境内に立てられたとき、エルサレムにいたクリスチャンたちはその都から逃れなければならなかった。エルサレム滅亡のしるしに関する二人の証人は、包囲に先立ってその「しるし」を見分けることの重大さを強調しており、さらに霊感は、その二人の証人が終わりの日において「より直接的な適用」を見いだすことを明らかにしている。エゼキエルとヨハネが神殿の幻の中にいることとの関連において、キリストによるエルサレム滅亡の警告について語りつつ、ホワイト姉妹は次のように記した。

「これらの預言はエルサレムの滅亡において部分的な成就を見たが、より直接的には終わりの日に適用される。」

「私たちは、偉大にして厳粛な諸事件の敷居に立っている。預言は急速に成就しつつある。主は戸口に立っておられる。まもなく、すべての生ける者にとって圧倒的な関心を呼ぶ一時代が、私たちの前に開かれようとしている。過去の論争は再燃し、新たな論争が起こるであろう。私たちの世界において展開される光景は、いまだ夢にも見られていないのである。」『証の書』第5巻、753頁。

第四章において、エゼキエルは「包囲のしるし」を強調する一つの譬えを演じるよう命じられた。エゼキエルはその書の中で五度にわたり譬えを演じたが、彼の同胞たちはそれを見ることを拒んだ。エゼキエルは五度にわたりその同胞たちに語ったが、彼らは聞くことを拒んだ。彼の演じた譬えとメッセージは、彼の譬えと言葉に伴う「知識」の増し加わりを受け入れることを拒む、五重の愚かな処女の階級を例証している。それらの言葉と譬えは、エルサレムの滅亡と直接結び付いており、それは「終わりの日に、いっそう直接的な適用」を有している。

あなた、人の子よ、一枚の瓦を取り、それをあなたの前に置き、その上に都、すなわちエルサレムを描け。これに対して包囲を設け、これに向かって砦を築き、これに向かって塁を築け。またこれに向かって陣営を敷き、その周囲に破城槌を備えよ。さらに、あなたは鉄の平鍋を取り、それをあなたとその都との間の鉄の壁として置け。あなたの顔をこれに向けよ。すると、それは包囲され、あなたはこれを包囲することになる。これはイスラエルの家へのしるしである。

あなたはまた、自分の左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の不義をその上に負わなければならない。あなたがそのように横たわる日数に応じて、あなたは彼らの不義を負わなければならない。わたしは彼らの不義の年数を、その日数に従ってあなたの上に置く。すなわち三百九十日である。こうしてあなたはイスラエルの家の不義を負わなければならない。そして、あなたがそれを終えたなら、再び右脇を下にして横たわり、ユダの家の不義を四十日負わなければならない。わたしは一日を一年としてあなたに定めた。それゆえ、あなたはエルサレムの包囲に向かって顔を向け、腕をあらわにし、これに向かって預言しなければならない。見よ、わたしはあなたを縄で縛る。あなたは、その包囲の日数を終えるまで、一方の脇から他方の脇へと向きを変えることができない。エゼキエル 4:1–8.

しるし

「しるし」という語は、エゼキエル書の中に九回見いだされる。第四章においては、エルサレムの包囲がイスラエルの家への「しるし」である。第十二章においては、エゼキエルは再び、エルサレムの包囲と滅亡を示す「しるし」である。

人の子よ、あなたは反逆の家のただ中に住んでいる。彼らには見えるための目がありながら見ず、聞くための耳がありながら聞かない。彼らは反逆の家だからである。それゆえ、人の子よ、移住のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ。あなたのいる所から別の所へ、彼らの見ている前で移るのだ。彼らは反逆の家ではあるが、あるいは悟るかもしれない。あなたは移住のための荷物のように、昼のうちに彼らの見ている前へそれを運び出し、夕暮れには、彼らの見ている前で、捕囚に赴く者のように出て行かなければならない。彼らの見ている前で壁に穴を掘り、そこから運び出せ。彼らの見ている前で、それを肩に担いで、たそがれに運び出せ。あなたは地を見ないように顔を覆え。わたしはあなたをイスラエルの家へのしるしとしたからである。エゼキエル12:2–6。

その反逆の家は、実演されたたとえを見ても、それが何を意味するのか理解せず、そこでエゼキエルに説明を求めた。

人の子よ、反逆の家であるイスラエルの家は、あなたに向かって、『あなたは何をしているのか』と言わなかったか。彼らに言え、『主なる神はこう言われる。この託宣は、エルサレムにいる君主、およびその中にいるイスラエルの全家に関するものである。』また言え、『わたしはあなたがたのしるしである。わたしがしたとおりに、彼らにもなされる。彼らは移されて行き、捕囚となる。』エゼキエル 12:9–11。

エルサレムの包囲は、終わりの日における神の民へのしるしである。

「古代の預言者たちは、それぞれ自分たちの時代のためというよりも、むしろ私たちの時代のために語ったのであり、それゆえ彼らの預言は私たちに対して効力を有している。『Now all these things happened unto them for ensamples: and they are written for our admonition, upon whom the ends of the world are come.』 1 Corinthians 10:11. 『Not unto themselves, but unto us they did minister the things, which are now reported unto you by them that have preached the gospel unto you with the Holy Ghost sent down from heaven; which things the angels desire to look into.』 1 Peter 1:12....」

「聖書は、その宝をこの終わりの世代のために蓄え、ひとつに結び合わせてきた。旧約聖書の歴史におけるすべての大いなる出来事と厳粛な諸事象は、この終わりの日々において、教会の中で繰り返されてきたのであり、また繰り返されつつある。」『セレクテッド・メッセージズ』第3巻、338、339頁。

まさにこの日

「エルサレムの包囲と滅亡」という象徴的なたとえの実演におけるエゼキエルは、終わりの日における神の民へのしるしである。

また第九年の第十の月、その月の十日に、主の言葉が私に臨んで言われた。「人の子よ、この日の名を、まさにこの日を記せ。バビロンの王は、まさにこの日、エルサレムに向かって陣を敷いた。」

また、背きの家にたとえを語って、彼らに言え。主なる神はこう言われる。鍋を掛けよ、これを掛け、水をもその中に注げ。その中にその肉片を集めよ、すなわち、すべての良い肉片、腿とももとを。これを最上の骨で満たせ。群れの最良のものを取り、またその下に骨を積み、これを十分に煮え立たせ、その中でその骨をも煮よ。それゆえ、主なる神はこう言われる。わざわいなるかな、血を流す町、その中に滓のある鍋、その滓の取り去られない鍋は。これを肉片ごとに取り出せ。その上にくじを落としてはならない。彼女の血はその中にあるからである。彼女はそれを岩の頂に置き、土の上に注いで、ちりで覆わなかった。それは憤りを引き起こして復讐を行わせるためであった。わたしは彼女の血を岩の頂に置いた。それが覆われないためである。

それゆえ、主なる神はこう言われる。ああ、血の町よ。わたしは火の薪の山を大きくする。木を積み重ね、火を燃え立たせ、肉を煮尽くし、香料でよく味つけし、骨を焼け。ついで、それを空にしてその炭火の上に置き、その青銅を熱くし、焼き、その中の汚れを溶かし、その垢を焼き尽くさせよ。彼女は偽りによって自らを疲れさせたが、その多くの垢は彼女の中から出て行かなかった。その垢は火の中にある。あなたの汚れの中には淫乱がある。わたしがあなたを清めようとしても、あなたは清められなかったから、わたしがあなたの上にわたしの憤りを注ぎ尽くすまでは、あなたはもはやその汚れから清められることはない。主であるわたしがこれを語った。それは必ず成り、わたしはこれを行う。わたしは撤回せず、惜しまず、また悔いない。あなたの歩みに従い、あなたの行いに従って、彼らはあなたをさばく、と主なる神は言われる。

また主の言葉が私に臨んで、こう言われた。人の子よ、見よ、わたしは一撃をもって、あなたの目の喜びをあなたから取り去る。しかし、あなたは嘆いてはならず、泣いてはならない。涙を流してもならない。声をあげて泣くことを慎み、死者のために喪に服してはならない。頭巾を頭に巻き、足に履き物をはき、口ひげをおおってはならない。また、人々の差し出すパンを食べてはならない。そこで私は朝、人々に語ったが、夕べに私の妻は死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。すると人々は私に言った。「あなたがこのようなことをするのは、私たちにとってどういう意味なのか、告げてくださらないのですか。」

そこで私は彼らに答えた。「主の言葉が私に臨んで、こう言われた。イスラエルの家に告げよ。『主なる神はこう言われる。見よ、わたしは、あなたがたの力の誇り、あなたがたの目の慕うもの、あなたがたの魂の惜しむものなる、わたしの聖所を汚す。また、あなたがたが残してきたあなたがたの息子たち、娘たちは、剣に倒れる。あなたがたは、わたしがしたようにしなければならない。口ひげをおおってはならず、人々のパンを食べてはならない。あなたがたの頭には頭巾があり、あなたがたの足には履き物がある。あなたがたは嘆かず、泣かず、ただ自分たちの咎のゆえに衰え果て、互いにうめき悲しむ。こうしてエゼキエルはあなたがたに対するしるしとなる。彼がしたすべてのことにしたがって、あなたがたもしなければならない。この事が起こるとき、あなたがたは、わたしが主なる神であることを知る。』」エゼキエル24:1–24。

エゼキエルは、エルサレムに対する包囲の開始と、その最終的な滅亡、そしてその後に続くラオデキヤのセブンスデー・アドベンチスト教会の信徒たちの捕囚を示すしるしである。

「キリストがオリーブ山の頂から眼下をご覧になったとき、あらゆる教会にこのような状態が存在しているのをご覧になった。これらの警告は、大いなる光を与えられていたにもかかわらずエルサレムの民の足跡に従っているすべての者に及ぶ。この民は、警告として私たちの前に置かれている。現代において神の警告を退けることによって、人々はエルサレムの罪を繰り返しているのである。主は、人間の働き手には見えず、また見ようともしないもの――バトル・クリークにおける人間のあらゆる企ての結末――をご覧になる。主は、神としてなし得るすべてのことをなされた。人々の罪が、もはや悔い改めを感じることのできない境界にまで達しないようにと、主はその目の前に光をひらめかせてこられた。しかし、公正かつ義なる原則から長い過程を経て離反したために、人々は、光と真理、正義と憐れみとを識別し得ないところに自らを置いた。この歩みは、彼らのまさに本性の一部となってしまったのである。」『証言集』第8巻、68。

アルファとオメガの二人の証人

エゼキエルは超自然的に口をきけなくされていたが、エルサレムが陥落した時には再び語ることができるようになり、その時、彼は一つの「しるし」となるであろうことが告げられていた。妻の死を嘆かなかったエゼキエルの態度は、包囲の開始におけるアルファのしるしを示し、エルサレムが陥落した時にエゼキエルの口が開かれたことは、オメガのしるしであった。破滅に至る包囲は、その初めと終わりにおいて、しるしによって画されている。同じ比喩の中で、アルファとオメガのしるしに対する第二の証人が示されており、それは「エゼキエルの目の喜び」の死がアルファであり、民の「目の喜び」の死がその期間のオメガのしるしであるということである。一年半の期間は、アルファとオメガについての二人の証人を有している。エゼキエルの妻の死は軍勢の捕囚と踏みにじりを象徴し、エルサレムのオメガの死は聖所の踏みにじりを象徴していた。

このように、エゼキエルはあなたがたへのしるしとなる。彼が行ったすべてのとおりに、あなたがたも行うのである。そしてこの事が起こるとき、あなたがたは、わたしが主なる神であることを知るようになる。また、人の子よ、わたしが彼らから、その力、彼らの栄光の喜び、その目の望み、その心の寄るところ、すなわちその息子たちと娘たちを取り去るその日には、その日に逃れた者があなたのもとに来て、あなたの耳にそのことを聞かせるではないか。その日、あなたの口はその逃れて来た者に向かって開かれ、あなたは語り、もはや口のきけない者ではなくなる。こうして、あなたは彼らへのしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル24:24–27。

六つの死

エゼキエルの妻の死は、包囲の開始と、預言的にはキリストの花嫁であるエルサレムの死を示し、また、包囲によって象徴される期間に先立たれる、まもなく到来する日曜法を例証している。包囲の期間と滅亡とは、直接結びついてはいるものの、二つの別個の道標である。包囲は一定の期間であり、滅亡は一時点である。滅亡とは、獣の像の形成の期間に先立たれる日曜法である。獣の像の期間は、獣の刻印をもって終結する。イエスはマタイ二十四章においてエルサレム滅亡のしるしを示されたとき、ノアの日々にも言及された。

しかし、ノアの日々のように、人の子の来臨もまたそのようである。洪水以前の日々に、人々がノアの箱舟に入るその日まで、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたように、そして洪水が来て彼らをことごとくさらい去るまで知らなかったように、人の子の来臨もまたそのようである。マタイ24:37–39。

ノアの時代において、恩恵期間の戸は閉ざされたが、これはまた、1844年10月22日に戸が閉ざされたことによっても予表されている、やがて到来する日曜休業令を予表している。1844年8月12日―17日のエクセターの天幕集会からの期間は、閉ざされた戸へと導く預言的期間を表している。

ノアの時代において、ノアは第三天使を代表しており、そして第三天使は1844年10月22日の閉ざされた戸に到達した。ノアの時代において、しかもそれはイエスによれば「人の子の来臨」のようであるが、黙示録第十四章の三天使はその閉ざされた戸へと導いた。ウィリアム・ミラーは第一天使の使命を代表しており、ノアの時代においてはエノクによって予表されていた。ユダは、エノクの使命をミラーの使命と並行するものとして示している。

アダムから数えて第七のエノクもまた、これらの者について預言して言った。「見よ、主はその幾万の聖徒たちを率いて来られる。すべての者に対してさばきを行い、彼らのうちの不敬虔な者たちをことごとく、その不敬虔のうちに行ったすべての不敬虔な行いについて、また不敬虔な罪人たちが主に逆らって語ったすべての激しいことばについて、有罪と宣告するためである。」ユダ 1:14, 15。

ミラーの第一天使の使命は、エノクの使命に予型されている「審判」を告知した。エノクの始まりは、彼が「アダムから七代目」であることによって示されている。ミラーの使命は、北王国に対する「七つの時」の到来とともに始まり、そして四十六年後、南王国に対する「七つの時」が成就したとき、すなわち1844年10月22日に第三天使が到来したことをもって終わった。審判の時の使者であったエノクとミラーの双方は、七という数が明示されることによって始まった。七代目であるエノクによって始まった期間は、箱舟の戸が超自然的に閉じられるまで、動物たちが七日間箱舟に入っていたその七日をもって終わった。イエスは常に、初めをもって終わりを例示される。

エノクはメトセラを生み、メトセラはさらにレメクを生んだ。レメクとメトセラは第二天使の使命を表し、また真夜中の叫びの使命をも表している。真夜中の叫びは閉ざされた戸にまで進展し、そのゆえに、洪水の年に死んだメトセラによって表されている。レメクは第二天使の使命を表し、そしてレメクは洪水の五年前に死んだ。レメクの死から、戸が閉ざされた時のメトセラの死に至るまでの五年間は、エゼキエルの花嫁の死が、その始まりを画した時期、すなわちメトセラによって表されるキリストの花嫁の死へと至る期間を予表していた。

エノクは1798年に到来した第一の天使を予表し、ラメクは1844年4月19日に到来した第二の天使を予表し、メトセラはエクセターから1844年10月22日の閉ざされた戸に至る真夜中の叫びを予表したが、それはノアによって予表されていた。ラメクの死からメトセラの死までの五年間は、紀元前587年から紀元前586年に至る一年半を予表した。ラメクからメトセラまでのその五年間は、1448年から1453年に至る五年間を予表する。

1448年10月31日、ヨハネス・パレオロゴスが死去し、その兄弟コンスタンティノス十一世(最後のコンスタンティノス)は、東方ローマの王位に即くため、イスラム教徒トルコ勢力の許可を求めた。1299年7月27日における彼の服属は、第10節に示されている黙示録第9章の第二の百五十年を成就した。ヨハネス・パレオロゴスの死から五年後、その兄弟コンスタンティノス十一世は、メフメト二世が東方ローマのビザンツ帝国を征服したとき、コンスタンティノープルの城壁の上で死んだ。メフメトはムハンマドのトルコ語形である。したがって、632年における最初のムハンマドの死は、黙示録第9章の最初の百五十年の預言(第5節にある)を開始し、それは八百二十一年後、「第二のムハンマド」の手による最後のコンスタンティノスの死をもって終わった。死の五年前、ムハンマドはローマの滅亡を予告しており、それはムハンマド二世と名づけられたトルコ人によって成就した。

最後の、すなわち第十一代のコンスタンティヌスは、コンスタンティノープルの戦いで死んだ。こうして、彼の兄弟ヨハネの死から彼自身の死に至るまでの五年間が特定される。この五年間は、息子ラメクの死から、五年後に箱舟の戸が閉じられた時の父メトセラの死に至るまでの五年間によって予表されていた。したがって、エゼキエルの妻の死はラメクの死によって予表されており、両者は共に一四四八年におけるヨハネ・パレオロゴスの死を証ししている。続くメトセラの死は、キリストの花嫁の死および紀元前五八六年のエルサレムの滅亡と符合し、これらは共に第十一代コンスタンティヌスの死と符合している。

死をもって始まり、また死をもって終わる預言的期間の三つの証人は、獣の刻印をもって終結する獣の像の形成の期間を例証しており、それはまた、ミラー派の歴史における真夜中の叫びの宣布と、現代の私たちの歴史において獣の刻印をもって終結する獣の像の形成と一致している。まもなく到来する日曜法において獣の刻印が成就するとき、預言的な「語ること」は、エルサレムが滅ぼされたときにエゼキエルが自らの意志によって「語る」ことができたことと一致して到来する。

語ること

エルサレムの滅亡によって予表される日曜休業令の時に、偽預言者が竜のように語るそのとき、アメリカ合衆国の預言的発言はしるしづけられる。

また、わたしは別の獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような二本の角があり、竜のように語った。黙示録 13:11。

日曜法の時に、バラムはそのろばを三度目に打ち、するとろばが語る。

すると主はろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたはもう三度もわたしを打ったのです」。バラムはろばに言った、「おまえがわたしを愚弄したからだ。もしこの手に剣があったなら、今すぐおまえを殺していただろうに」。ろばはバラムに言った、「わたしは、あなたのものとなって以来今日に至るまで、あなたが乗ってきたあなたのろばではありませんか。わたしがあなたにこのようなことをするのが常でしたか」。彼は言った、「いや」。民数記 22:28–30。

偽預言者は日曜法において語り、イスラム教もまた日曜法において語る。両者はいずれも預言的に偽預言者である。日曜法において、遅れていたハバククの「幻」が語る。

この幻は、なお定められた時のためのものである。しかし終わりには、それは語り、偽ることがない。たとい遅れるように見えても、それを待て。必ず来るからである。それは遅れることがない。ハバクク 2:3。

ハバククは、偽預言者たちとは対照的に語る真の預言者である。ハバククの「幻」は、かつて口のきけなかったエゼキエルの口を通して語られ、その口はその時開かれる。神の口となるという約束は、エレミヤに与えられた。

なぜ、わたしの痛みは絶えることがなく、わたしの傷は癒やされることを拒んで、治ることがないのでしょうか。あなたは、わたしにとって、まことに欺く者のようなもの、水の絶える流れのようなものとなられるのでしょうか。それゆえ、主はこう仰せられる。もしあなたが立ち返るなら、わたしはあなたを再び連れ戻し、あなたはわたしの前に立つようになる。もしあなたが卑しいものの中から尊いものを取り出すなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らをあなたのもとに立ち返らせよ。しかし、あなたが彼らのもとに立ち返ってはならない。エレミヤ 15:18, 19。

日曜法の時に、ザカリヤの九か月にわたる沈黙は、彼が口を開き、その子の名はヨハネとすべきであると確認したときに終わった。ザカリヤは、第三天使の言葉を信じない指導者たちを表しており、ヨハネはエリヤ運動、すなわちキリストの再臨を迎え入れる教会を表していた。

するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそのことがわかるでしょうか。私はもう老人ですし、妻も年をとっております。」そこで御使いは答えて彼に言った、「私はガブリエル、神の御前に立つ者です。あなたに語り、この喜ばしい知らせを告げるために遣わされたのです。見なさい。これらのことがその時に成就する日まで、あなたは口がきけなくなり、物を言うことができなくなります。あなたは、時が来れば成就する私の言葉を信じなかったからです。」

さて、人々はザカリヤを待っていて、彼が神殿の中に長くとどまっているのを不思議に思っていた。彼が出て来たとき、彼らに話すことができなかったので、人々は彼が神殿で幻を見たのだと悟った。彼は彼らに身振りで示すだけで、口がきけないままであった。ルカ 1:18–22。

ザカリアは祭司の第八の組に属していた。

ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の祭司で、ザカリヤという名の者がいた。彼の妻はアロンの娘たちの一人で、名をエリサベツといった。二人はともに神の御前にあって義人であり、主のすべての戒めと定めとに従って、非の打ちどころなく歩んでいた。ところが、エリサベツは不妊であったため、彼らには子がなく、しかも二人ともすでに年を重ねていた。さて、ザカリヤがその組の順番に従って神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職の慣例に従い、主の神殿に入って香をたくことが、くじによって彼に当たった。そして、香をたく時刻には、民の群衆がみな外で祈っていた。ルカ 1:5–10

すべての預言者は終わりの日々を表しており、ゼカリヤはエゼキエルと同様に神殿に入った。彼は祭司の第八の組に属しており、それはノアの箱舟において古い世界から新しい世界へ移った八人の魂の象徴を示している。彼もその妻も非の打ちどころがなかったが、ゼカリヤはガブリエルの言葉を疑うことになる。ミラー派運動はフィラデルフィヤ(非の打ちどころのない者たち)として始まったが、1856年にラオデキヤの者たちへと移行した。終わりの日々において、御使いのメッセージは第三天使のメッセージであり、ゼカリヤに対するガブリエルのメッセージは、第三天使のメッセージを表すとともに、バプテスマのヨハネによって表されるエリヤのメッセージをも表している。

すると、香の祭壇の右側に立っている主の御使いが、彼に現れた。ザカリヤはこれを見て取り乱し、恐れに襲われた。しかし御使いは彼に言った、「恐れるな、ザカリヤ。あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その名をヨハネと名づけなさい。あなたには喜びと歓喜とがあり、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主の御前に大いなる者となり、ぶどう酒も濃い酒も飲まず、母の胎内にある時から聖霊に満たされる。彼はイスラエルの子らの多くを、彼らの神なる主に立ち返らせるであろう。また彼は、エリヤの霊と力とをもって主の前に先立ち、父たちの心を子らに向けさせ、不従順な者たちを義人の知恵に立ち返らせて、主のために整えられた民を備えるであろう。」するとザカリヤは御使いに言った、「何によって私はそれを知ることができましょうか。私は老人であり、妻もまた年を重ねております。」御使いは答えて彼に言った、「わたしは神の御前に立つガブリエルである。あなたに語り、この喜ばしい知らせを告げるために遣わされたのである。」ルカ 1:11–19.

ザカリヤは、来たるべきエリヤについてのその告知が成就することを疑った。

見よ、わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。これは、わたしが来て、この地をのろいをもって打つことのないためである。マラキ 4:5, 6.

ホワイト姉妹は、第九章におけるエゼキエルの印の文脈の中で、ラオデキヤのセブンスデー・アドベンチスト教会の指導者たちが、なぜザカリヤの不信仰によって予表されていたのかを明らかにしている。

自らの霊的衰退を悲しまず、また他者の罪を嘆かない者たちの部類は、神の印を受けないままに残される。主は、手に殺戮の武器を持つ御使いたちに命じられる。「彼の後について町の中を巡り、撃て。あなたがたの目は惜しんではならない。あわれんではならない。老人も若者も、娘も幼子も女も、ことごとく殺せ。しかし、しるしのある者にはだれにも近づいてはならない。そして、わたしの聖所から始めよ。』そこで彼らは、宮の前にいた年老いた者たちから始めた。」

「ここに、教会――主の聖所――が、神の怒りの打撃を最初に受けたことが示されている。年老いた者たち、すなわち神から大いなる光を与えられ、民の霊的利益の守護者として立っていた者たちは、その委託を裏切った。彼らは、昔の日々のような奇跡や、神の力の顕著な現れを、もはや期待する必要はないという立場を取った。時代は変わったのである。これらの言葉は彼らの不信を強め、そして彼らは言う。主は善をも行わず、悪をも行わない、と。主はあまりにも憐れみ深いので、その民をさばきをもって訪れることはない、と。このようにして、『平安だ、安全だ』が、もはや再びラッパのように声を上げて、神の民にその背きを、ヤコブの家にその罪を示すことのない人々から発せられる叫びとなっている。ほえようとしないこれらの口のきけない犬こそ、怒りを受けた神の正しい復讐を身に受ける者たちである。男も、若い女も、幼い子どもたちも、みな共に滅びる。」『Testimonies』第5巻、211頁。

ザカリヤは、第三の天使の使命、すなわち、バプテスマのヨハネの歴史とウィリアム・ミラーの歴史とをも繰り返すエリヤの使命の知らせを疑った。

五か月

エリサベツは五か月の間、その妊娠を隠していた。

そののち、彼の妻エリサベツは身ごもり、五か月の間、身を隠して言った。「主は、人々の間における私のそしりを取り去るために、私に目を留めてくださったこの時に、このように私を扱ってくださいました。」そして六か月目に、御使いガブリエルが神からガリラヤのナザレという町に遣わされた。ルカ 1:24–26。

ザカリヤは祭司の第八の組に属しており、それは、ザカリヤが再び語ることになるその時、すなわちその子ヨハネが八日目に割礼を受けることと符合している。彼とその子ヨハネは、ノアの箱舟にいた八つの魂を表しており、その者たちは、洪水の水によってもたらされた死から五か月、すなわち百五十日の間、隠されていた。妊娠の百五十日と洪水の水の百五十日は、黙示録九章における二つの五か月の期間と符合している。

ザカリヤとその子ヨハネもまた、第七の教会ラオデキヤが第八の教会フィラデルフィヤへと移行する時を表している。ザカリヤが第八の組の務めに就いた時から、その子ヨハネの生後八日目の割礼に至るまでの期間は、初めと終わりを示すものとして数字の八によって特定される預言的期間を表している。その預言的期間の内には、隠される時を表す五か月の期間がある。

預言における「語ること」は、間もなく到来する日曜法を指し示している。それゆえザカリヤは、割礼の行為によって表されるように、その子が封印される時、すなわち日曜法の時に語るのである。その歴史において、ザカリヤが語る日曜法以前、五か月の終わりに、第六の月にマリヤはエリサベツを訪れ、聖霊はエリサベツに油を注がれる。エリサベツは女として神の教会を表しており、そのことは、間もなく到来する日曜法に先立つ四か月前における神の教会への油注ぎを表象している。

そのころ、マリヤは立って急いで山地に向かい、ユダの町に行き、ザカリヤの家に入ってエリサベツにあいさつした。すると、エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その胎内の子が躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女のうちで祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来てくださるとは、どうしてこのようなことがあるのでしょう。ご覧なさい。あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、胎内の子が喜んで躍ったのです。主から告げられたことは必ず成就すると信じた人は、なんと幸いなことでしょう。」ルカ 1:39–45。

五か月の終わりに、エリサベツは「大声で」マリアに語りかけ、ガブリエルのメッセージに対するマリアの信仰を称賛した。このメッセージは、終わりの時代においては第三天使のメッセージである。エリサベツの夫ザカリヤは信じなかったが、マリアは信じた。マリアがガブリエルのメッセージを聞いたのは、ザカリヤの五か月後であった。したがって、彼女の第三天使に対する信仰は、五か月の隠されたメッセージが啓示された後に到来するものとして示されている。終わりの時代における五か月の隠されたメッセージとは、黙示録九章五節の最初の五か月である。マリアは、終わりの時代において第三天使のメッセージを受け入れる教会を表しており、そのメッセージには、まもなく到来する日曜法が約四か月後に語られ始める直前に与えられる、五か月に関する特別な開封が含まれている。

マリアの訪問の道標において、ザカリヤとエリサベツによって表象される第一天使および第二天使の運動は、マリアとヨセフによって表象される第三天使の運動と結び付く。ザカリヤは、第三天使の使命を信じなかった教会の一役員を表し、また大工ヨセフは、自給伝道の働きによって表象される一つの運動を表している。アドベンチズムは、その始まりと同じように終わるのであり、そしてそれは組織化された教会制度としてではなく、運動として始まったのである。ヨセフ、マリア、キリストによって表象される十四万四千人の運動は、ザカリヤ、エリサベツ、ヨハネによって表象されるミラー派運動の直接の親族であり、そして一八六三年の不信はザカリヤによって表象される。一八六三年は第一天使および第二天使の使命に対する不信を表し、第三天使の運動はマリアの信仰を表している。

「天からの力ある御使いを助けるために、天使たちが遣わされた。そして私は、至る所から響いてくるかのような声を聞いた。『わが民よ、彼女から出て来なさい。その罪にあずからないためであり、その災害を受けないためである。彼女の罪は天にまで積み上がり、神はその不義を覚えられたからである。』このメッセージは、第三のメッセージへの付加であるかのように思われ、1844年に真夜中の叫びが第二天使のメッセージに加わったのと同じように、それに結びついていた。神の栄光は、忍耐強く待ち望んでいた聖徒たちの上にとどまり、彼らは恐れることなく最後の厳粛な警告を発し、バビロンの陥落を宣べ伝え、神の民に対して、彼女の恐るべき運命を免れるためにその中から出て来るよう呼びかけた。」『初代文集』277ページ。

二つのメッセージの結合は、マリヤがエリサベツを訪れたことによって表されており、その時点は、隠されていた五か月が明らかにされる時に到来した。その時点こそ、二つの預言が結び合わされ、ともに宣布されるところである。一つはエリサベツによって宣布され、もう一つはマリヤによって宣布された。二つのメッセージの結合は、真夜中の叫びが第二天使のメッセージと結び合う時を示しており、それはミラー派の歴史において、エクセターのキャンプ・ミーティングで起こった。

エリサベツが、そして次いでマリヤがその宣言を語った後、「マリヤは三箇月ほど彼女と共にいて、自分の家に帰った。」ルカ1:56。このエクセターから1844年10月22日に至る六十六日間は、ザカリヤが語った時に終結したその四箇月によって表されており、それは間もなく到来する日曜法の時であった。その四箇月は、真夜中の叫びの使命の宣布の期間を表しており、それは隠された五箇月の使命の後に到来するのである。

ミラー派の歴史における二つのメッセージは第一天使と第二天使であり、第一天使のメッセージは、ヨサイア・リッチによって提示されたとおり、五か月の期間をもって始まり、1840年8月11日にその成就を見る十日前まで部分的に隠されていた時の預言の成就によって力づけられた。第二天使のメッセージに力を与えたものは、サミュエル・スノウによって提示されたとおり、エクセターのキャンプ集会においてなされた1843年という誤った予測の訂正であった。

真夜中の叫びの二重のメッセージの宣布は、戸が閉じられる前の短い期間として表されており、それはノアの物語において、箱舟がアララト山の上にとどまることをもって終結した五か月の期間を開いたのである。真夜中の叫びの宣布の期間は、隠されていた五か月の封印が解かれた後に到来するが、そのことは1840年8月11日の十日前に起こり、また主が1843年のチャートにおいて覆っておられた諸々の数字から御手を取り除かれた後でもあった。8月1日から11日までの十日間は、エクセターから1844年10月22日までの六十六日間と一致しており、二重の証しは、最初の失望を生じさせた誤った宣布の訂正を伴う、隠されていた五か月の封印解除を明らかにし、しかもそれは、マリアが第六の月にエリサベツに会い、これに挨拶する時に起こるのである。

日曜法の時、アメリカ合衆国は竜として語り、イスラムのろばは語り、ハバククの幻はエレミヤ、ゼカリヤ、そしてエゼキエルの口を通して語る。日曜法の時、エゼキエルはしるしであり、したがって、日曜法の時に掲げられる旗を表している。エゼキエルにおける「しるし」という語の九つの言及のうち二つは、「安息日」を、神性と人性との結合を表す聖別のしるしとして示している。

しかし、わたしはわたしの名のために事を行った。それが、彼らのいるその異邦の民の前で汚されることのないためである。その者たちの目の前で、わたしはエジプトの地から彼らを導き出すことにより、自らを彼らに示した。それゆえ、わたしは彼らをエジプトの地から出させ、荒野に導き入れた。そして、わたしの定めを彼らに与え、わたしのさばきを彼らに示した。人がこれを行うなら、その中にあって生きるのである。

さらにまた、わたしは彼らにわたしの安息日を与え、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。ところがイスラエルの家は荒野でわたしに背き、わたしのおきてに歩まず、わたしの定めを退けた。人がこれを行うならば、それによって生きるべきものであるのに、彼らはまた、わたしの安息日を大いに汚した。それゆえ、わたしは荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを滅ぼし尽くそうと言った。しかし、わたしはわたしの名のために事を行った。それは、わたしが彼らを導き出した諸国民の目の前で、わたしの名が汚されないためであった。また、わたしは荒野で彼らに向かって手を挙げ、わたしが彼らに与えた、乳と蜜の流れる地、すべての国々の誉れである地に、彼らを導き入れないと誓った。彼らがわたしの定めを退け、わたしのおきてに歩まず、わたしの安息日を汚したからである。彼らの心がその偶像に従っていたからである。それでも、わたしの目は彼らを惜しんで、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶ち尽くさなかった。しかし、わたしは荒野で彼らの子らに言った。『あなたがたの父祖のおきてに歩んではならない。その定めを守ってはならない。その偶像によって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。わたしのおきてに歩み、わたしの定めを守り、これを行え。わたしの安息日を聖なるものとせよ。それはわたしとあなたがたとの間のしるしとなり、あなたがたの神、主であるわたしを、あなたがたが知るためである。』エゼキエル 20:9–20。

エゼキエルは十四万四千人の旗標を表しており、また、人性と結合した神性のしるしは主の「安息日」である。エゼキエルは包囲の初めにおけるしるしであり、また、彼が旗標として掲げられるとき、エルサレムの滅びにおけるしるしでもある。包囲の初めにおいて、見ることも聞くこともしようとせず、その「安息日」を汚す者たちもまた、しるしである。

そのとき、イスラエルの長老たちのうちのある者たちがわたしのもとに来て、わたしの前に座した。すると主の言葉がわたしに臨んで言われた。「人の子よ、この者たちはその心の中に偶像を立て、その咎のつまずきの石をその顔の前に置いている。わたしが彼らのために、いったい尋ね求められるべきであろうか。ゆえに、彼らに語って言え。『主なる神はこう言われる。イスラエルの家の者で、その心の中に偶像を立て、その咎のつまずきの石をその顔の前に置き、しかも預言者のもとに来る者はだれでも、わたし主みずから、その多くの偶像に応じて、その来る者に答える。それは、イスラエルの家をその自らの心によって捕えるためである。彼らはみな、その偶像のゆえに、わたしから離れ去ってしまったからである。』」

それゆえ、イスラエルの家に告げよ。主なる神はこう言われる。悔い改めよ。あなたがたの偶像から立ち返れ。あなたがたのすべての忌むべきものから顔を背けよ。イスラエルの家の者、またイスラエルに寄留する異国人であって、わたしから離れて身を隔て、その心の中に偶像を据え、その不義のつまずきの石を自分の顔の前に置き、それでもわたしについて伺いを立てようとして預言者のもとに来る者はだれでも、主であるわたしがみずからその者に答える。わたしはその人に向かって顔を立て、彼をしるしとし、ことわざとし、わたしの民の中から断ち滅ぼす。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知るようになる。もし預言者が惑わされて何かを語るなら、その預言者を惑わしたのは主であるわたしである。わたしは彼に向かって手を伸ばし、彼をわたしの民イスラエルの中から滅ぼす。彼らはその咎の罰を負う。預言者の罰は、彼に伺いを立てる者の罰と同じである。これは、イスラエルの家がもはやわたしから迷い出ることなく、またそのすべての背きによってこれ以上自らを汚すことがないためである。こうして彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる、と主なる神は言われる。エゼキエル 14:1–11。

ナッシュヴィルにおいて、ラオデキヤのセブンスデー・アドベンチスト教会の内部にあって、ザカリヤがそうであったように信じなかった者たち、すなわち、1840年から1844年によって表される「わたしたちは、以前の日々のような奇跡や神の力の著しい現れを期待する必要はないという立場を取っていた」者たちは、なぜ警告を発しなかったのかについて、アドベンチズムの外にいる者たちから問いただされることになる。彼らは、エクセターの天幕集会における二つの対立する天幕によって表された賢い者と愚かな者との分離を画する、偽りの平和と安全のメッセージの「しるし」となる。彼らは偶像礼拝と反逆の「しるし」を帯びる一方、エゼキエルは真の預言的警告のメッセージを担う。包囲の終わり、すなわち日曜法を表すエルサレムが滅ぼされる時、反逆のしるしは獣の刻印であり、従順のしるしは神の印である。

日曜法において、アドベンチズムに対する恩恵期間は完全に閉じられ、その時そこには、義人と悪人とに付されたしるしがある。間近に迫った日曜法における恩恵期間の終結は、ミカエルが立ち上がる時の恩恵期間の終結を予表しており、そこでは、多くの群衆の死のしるしがゴグとマゴグによって表されている。

その地を通り過ぎる旅人たちは、だれでも人の骨を見ると、埋葬する者たちがそれをハモン・ゴグの谷に葬るまで、そのそばにしるしを立てる。また、その町の名もハモナと呼ばれる。こうして彼らはその地を清めるのである。エゼキエル 39:15, 16。

契約のしるしは、エゼキエル書第三十七章において示されている。そこでは、死んだ骨の谷が生かされ、二本の棒がつなぎ合わされる。骨は、四方の風として表されるイスラムの使命によって生かされるのであり、それによって一八四〇年八月十一日が予表されている。二本の棒は一つに結び合わされるが、それは第二天使の使命と真夜中の叫びの使命との結合を表している。骨は第一天使の力の付与であり、二本の棒は第二天使の力の付与である。その後、神の民は、十四万四千人としてヨハネによって表される、終わりの日における神の選ばれた契約の民となる。

さらに、わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らを堅く立て、彼らを増し加え、わたしの聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。わたしの幕屋も彼らとともにあり、まことに、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所がとこしえに彼らのただ中にあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知る。エゼキエル 37:26–28。

神性と人性の結合は、神の御言葉の中でさまざまな仕方によって表されているが、その一つの例証は、人間のより高次の本性の内に位置する「魂の城塞」が、神の聖所の城塞に結び合わされる場合である。神の城塞を表す天の御座の間が、人間のより高次の本性の城塞と結合するとき、神の民は「聖別され」、主は「とこしえに彼らのただ中に住まわれる」のである。

第三十七章の後、エゼキエルは第三十八章および第三十九章を提示し、そこで神に選ばれた契約の民の外にいる人類の連合体の象徴として、ゴグとマゴグを取り上げている。第四十章においては、第三十七章の契約の民が、全地を満たす神殿として表されている。第三十八章から第四十章は、三十八と四十という数字によって象徴されるように、終わりの日における神の契約の民の勃興を表している。

これらの事柄については、次の記事で引き続き扱う。