荒野に声があるためには、荒野が存在しなければならない。2023年7月、ユダ族の獅子が、ヨハネの黙示録第一章に記されているとおり、御自身についての啓示にかけられていた封印をその時解いておられたことを指し示す声が響き始めた。2020年7月18日の安息日における失望が、黙示録十一章の三日半の始まりとなり、それは2023年12月30日の安息日に終わった。その安息日に、フューチャー・フォー・アメリカは、2020年7月以来初めて、Zoom会議で公に語った。

その時点以降、イエス・キリストの啓示は段階的に開かれてきた。まず「真理」という語の啓示から始まり、この語は、ヘブライ語アルファベットの第1・第13・第22の文字によって示される三段階の枠組みを表すものと見なされるに至った。これらの文字を組み合わせると「真理」という語となる。「真理」という語の枠組みにおいて表されたこの三つの段階とは、新たな文脈に置かれた古き真理であった。

私たちは長年、外庭・聖所・至聖所という三つの段階が、聖霊の三つの御業、すなわち聖霊が外庭において罪を認めさせ、聖所において義を顕現し、至聖所において裁きを行うという働きに並行し、対応していることを示してきた。私たちは、これら三段階が神の御言葉全体を通して顕現していることを確認してきたが、これらすべての理解は、2023年に至り、「真理」という枠組みのもとで一層拡大され、明確にされた。古き真理を取り、それを新たな真理の枠組みの中に位置づけることこそ、キリストがその御言葉の封印を段階的に解かれる中でなさる御業である。2023年に終わりを告げた「荒野」は、預言が解かれる「終わりの時」を預言的に表している。その預言とは、「真理」であられるイエス・キリストの啓示である。

救い主の時代において、ユダヤ人は、真理という尊い宝石を、伝統と作り話という瓦礫で覆い隠してしまい、真と偽を見分けることが不可能になっていた。救い主は、迷信と長年温存されてきた誤りという瓦礫を取り除き、神の言葉という宝石を真理という枠組みの中に据えるために来られた。もし救い主が、かつてユダヤ人のところに来られたように、今わたしたちのもとに来られるとしたら、何をされるだろうか。彼は、伝統や儀式という瓦礫を取り除くという、同様の働きをしなければならないだろう。彼がその働きをされたとき、ユダヤ人は大いに動揺した。彼らは神の本来の真理を見失っていたが、キリストはそれを再び明らかにされた。神の尊い真理を、迷信や誤りから解き放つことは、わたしたちに委ねられた務めである。なんという大いなる働きが福音においてわたしたちに託されていることだろう! Review and Herald, 1889年6月4日。

それは、「神の尊い真理を迷信と誤謬から解放すること」および「神の御言葉の宝玉を真理の枠組みに配すること」が、私たちの務めである。2023年に主は、「truth」という語によって表される構造において、真理の枠組みをお示しになった。その枠組みは、「神の」「本来の」真理を明らかにする。

「誤りの塵と瓦礫が真理の尊い宝石を埋もれさせてきたが、主の働き人たちはこれらの宝を掘り起こすことができる。そうして数千の人々が、それらを喜びと畏れをもって仰ぎ見るようになる。神の御使いたちはへりくだった働き人のそばにあって、恵みと神の啓きを与え、そして数千の人々がダビデとともに『あなたの律法のうちにある驚くべきことを見るために、私の目を開いてください』と祈るように導かれる。長い時代にわたって見えもせず顧みられもしなかった真理が、神の聖なるみ言葉の光に照らされたページから、炎のように輝き出るだろう。一般に、真理を聞き、拒み、それを踏みにじってきた諸教会は、なおいっそう邪悪にふるまうだろう。しかし『賢い者』、すなわち正直な者たちは悟る。その書は開かれており、神の言葉は、御心を知ることを願う者たちの心に届く。天から来て第三の天使に加わる天使の大いなる叫びによって、数千の人々が、世を長きにわたりとらえてきたまどろみから目を覚まし、真理の美しさと価値を見るだろう。」レビュー・アンド・ヘラルド、1885年12月15日。

『賢い者たち』であり『正直な者たち』である『主の働き人たち』は、『悟り』、『数千の人々が喜びと畏敬をもってそれらを仰ぎ見るような宝』を『明らかにする』。 残念ながらラオデキア的アドベンチズムにとっては、第三の天使の大いなる叫びのときに彼らがそのまどろみから目覚めるのではない。というのも、それは日曜法であり、そしてそれはアドベンチズムが目覚めるにはあまりにも遅すぎるからである。 十一時の働き人たちは、自らの『まどろみ』から、『第三の天使に加わる天使の大いなる叫びのときに』目覚めるが、それは間近に迫る日曜法のときである。 2024年以降、『久しく見られず顧みられなかった真理』が、『神の聖なる御言葉の光に照らされた頁から』燦然とほとばしり出ている。

イザヤ書22章22節においてはエルヤキムに一つの鍵が授けられ、マタイによる福音書16章においてはペトロに天の国の複数の鍵が授けられる。

また、わたしはダビデの家の鍵を彼の肩に置く。彼が開ければ、閉める者はなく、彼が閉めれば、開ける者はいない。イザヤ書 22:22。

「鍵」はフィラデルフィアに授けられている。なぜなら、そこが、聖書において「開き、また閉じる」鍵に言及されている唯一の別の箇所だからである。

フィラデルフィアにある教会の御使いに書け。聖なる方、まことの方、ダビデの鍵を持ち、開けば誰も閉じることができず、閉じれば誰も開くことができない方が、こう言われる。わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に開かれた門を置いた。誰にもそれを閉じることはできない。あなたにはわずかな力しかないが、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。ヨハネの黙示録 3章7、8節

詭弁を弄するユダヤ人たちとの最後のやり取りにおいて、キリストはユダヤ人たちが答えることのできない問いを投げかけた。

パリサイ人たちが一同に会していたとき、イエスは彼らに問われた、「あなたがたはキリストについて何と思うか。彼はだれの子か」。彼らはイエスに言った、「ダビデの子です」。そこでイエスは彼らに言われた、「では、どうしてダビデは霊によって彼を『主』と呼び、こう言っているのか――『主はわが主に言われた、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座していなさい」』。もしダビデが彼を主と呼ぶのであれば、どうして彼はダビデの子なのか」。

そして、誰も彼に一言も答えることができず、その日から後は、誰一人として彼にこれ以上何も質問しようとはしなかった。マタイ 22:41-46。

ユダヤ人は、ダビデとキリストとの預言的関係を理解し得なかった。なぜなら、彼らには、“line upon line”という聖書的言語を解するための預言の鍵が欠けていたからである。キリストは、彼らの盲目が、真理の御言葉を正しく区分できないことに基づくものであると指摘して、ユダヤ人とのやり取りを締めくくった。彼は、「もしあなたがモーセを理解していれば、キリストを理解したであろう」と指摘していたが、彼らは、自らが堅持し擁護すると称していた聖書を理解していなかった。

「ダビデの家」の「鍵」は、フィラデルフィアの教会であったミラー派に与えられた。この「鍵」とは、戸の開閉によって象徴された改革運動であった。1798年から1863年にかけて、ミラー派運動は、運動から教会へと移行するとともに、フィラデルフィアの経験からラオディキアの経験へと移った。1844年4月19日に一つの戸が開かれ、また一つの戸が閉ざされ、同様に1844年10月22日にも一つの戸が開かれ、また一つの戸が閉ざされ、1863年にも一つの戸が開かれ、また一つの戸が閉ざされた。

エルヤキムは一つの鍵を持っていたが、ペトロには複数の「鍵」が与えられた。単数形の鍵は、1844年の「閉ざされた戸」であった。

「聖所の主題は、1844年の失望の謎を解き明かす鍵であった。それは、相互に関連し、調和のとれた真理の完全な体系を明らかにし、神の御手が大いなる再臨運動を導いてこられたことを示すとともに、神の民の立場と働きを明るみに出すことによって、現在の義務をも啓示した。」『大争闘』423頁。

聖所の教理は、1844年の閉ざされた戸を開いた鍵であった。しかし、ペテロにも御国の鍵が与えられた。

するとイエスは彼に答えて言われた。「バルヨナのシモンよ、あなたは幸いです。あなたにそれを明らかにしたのは肉と血ではなく、天におられるわたしの父です。さらにあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。黄泉の門もこれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を授けます。あなたが地上で結ぶものは何でも、天においても結ばれます。あなたが地上で解くものは何でも、天においても解かれます。」マタイによる福音書 16:17-19

行に行を重ねて、ペテロによって代表される最後の契約の花嫁フィラデルフィアには、ダビデの家の鍵と天の御国の鍵とが与えられる。ダビデの家の鍵は、イエスがパリサイ人たちと最後に取り扱った主題である。

パリサイ人たちが一同に会していたとき、イエスは彼らに問われた、「あなたがたはキリストについて何と思うか。彼はだれの子か」。彼らはイエスに言った、「ダビデの子です」。そこでイエスは彼らに言われた、「では、どうしてダビデは霊によって彼を『主』と呼び、こう言っているのか――『主はわが主に言われた、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座していなさい」』。もしダビデが彼を主と呼ぶのであれば、どうして彼はダビデの子なのか」。

そして、誰も彼に一言も答えることができず、その日から後は、誰一人として彼にこれ以上何も質問しようとはしなかった。マタイ 22:41-46。

「ダビデとその主」という主題こそ、第三時に、ペンテコステの二階の広間でペテロが語り始めたところである。ファリサイ派とキリストとの問答の扉を閉ざしたその主題が、ペンテコステに二階の広間の扉を開くためにペテロが用いた鍵であった。

というのは、ダビデは天に昇ったのではない。しかし彼自身こう言っている、『主はわが主に言われた、「わたしの右に座していよ、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ゆえに、イスラエルの全家は確かに知るがよい。あなたがたが十字架につけたそのイエスを、神は主ともキリストともされたのである。

これを聞いて、彼らは心を刺され、ペテロおよび他の使徒たちに、「兄弟たちよ、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

そこでペテロは彼らに言った。「悔い改めなさい。そして、罪の赦しのために、あなたがた一人ひとりイエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるであろう。というのは、この約束は、あなたがたとあなたがたの子らと、また遠くにいるすべての者、すなわち、わたしたちの神である主がお召しになる者すべてに与えられているからである。」彼はまた他にも多くの言葉をもって証し、勧めて言った。「この曲がった世代から救われなさい。」そこで、彼の言葉を喜んで受け入れた者たちはバプテスマを受け、その日におよそ三千の魂が彼らに加えられた。使徒行伝 2:34-41。

ペトロは、つなぐことも解くこともできる鍵を持っていた。彼がそうしたとき、天はペトロの行為を承認した。ペトロは、神の御言葉の真理の封印を解くために神性と人性が協働することを象徴している。それらの真理の封印が解かれると、それらは知識として示される。

キリストの時代、旧約聖書に記された知恵の宝庫を開くために本来それを握っているべき人々によって、知識の鍵は取り上げられていた。ラビや教師たちは、貧しい者や苦しむ者から事実上天の御国の門を閉ざし、彼らを滅びに任せた。キリストは説教において、一度に多くの事柄を持ち出して彼らの心を混乱させることのないようにされた。彼は一つひとつの要点を明確に、はっきりと示された。思想を教え込むという目的にかなうのであれば、彼は預言における古くなじみの真理の繰り返しを軽んじはしなかった。

キリストは、古来の真理の珠玉のすべての源であられた。ところが、敵の働きによって、これらの真理はその位置を奪われ、本来の位置から切り離され、誤りの枠組みに組み込まれてしまっていた。キリストの御業は、これらの尊い珠玉を真理の枠組みの中に再び整え、確固として据えることであった。ご自身が世を祝福するためにお与えになった真理の原則は、サタンの働きによって埋もれ、見かけ上は絶えてしまっていた。キリストはそれらを誤りの瓦礫の中から救い出し、新たな生命力を与え、尊い宝石として輝き、永遠に堅く立つよう命じた。

キリストご自身は、これらの古い真理のいずれも、微塵たりとも借りることなく用いることができた。というのも、それらはすべて、もともとキリストから出たものだからである。彼はそれらをあらゆる時代の人々の心と思いのうちに植え付けてこられ、そしてこの世に来られたときには、形骸化していた真理を再構成して生気を与え、後の世代の益のために、いっそう力強いものとなさった。がらくたの中から真理を救い出し、元の新鮮さと力をも上回るものとして再び世界にお与えになったのは、イエス・キリストであった。『Manuscript Releases』第13巻、240、241ページ。

ペトロの鍵は、結ぶことと解くためのものであり、ペトロは、最後のキリストの花嫁、すなわち十四万四千人を表している。十四万四千人の証しにおいて表されるペトロの結ぶメッセージは、封印である。十四万四千人の証しにおけるペトロの解くメッセージは、第三の災いのイスラームである。

そのとき、私は第三の御使いを見た。私に付き添っていた御使いが言った。「彼の働きは恐るべきものである。彼の使命は畏るべきものである。彼は、麦を毒麦から選り分け、天の穀倉のためにその麦に印をし、あるいは束ねる御使いである。これらの事柄は、心のすべて、注意のすべてを占めるべきである。」『初期の著作』119頁。

束ねられた麦は、五旬祭における小麦の初穂の供え物によって表象され、それは揺り動かしてささげる供え物として、十四万四千の旗じるしが掲げられることを象徴する。神の民の封印はペテロの内的メッセージであり、9/11以降に段階的に解き放たれていく第三の災いとしてのイスラムの歴史の中で起こる。

この後、わたしは四人の御使いが地の四隅に立ち、地の四つの風を押さえて、風が地にも海にも、またどの木にも吹きつけないようにしているのを見た。さらに、日の出る方から上って来る別の御使いを見た。彼は生ける神の印を持っており、大声で、地と海に害を加える権威を与えられている四人の御使いに叫んで言った。「わたしたちが、わたしたちの神のしもべたちの額に印を押し終えるまで、地にも海にも木々にも害を加えてはならない。」ヨハネの黙示録 7:1-3

神の民が拘束されている間に制止されているあの四つの風は、9/11に解き放たれ、その後、ジョージ・ブッシュ(子)によって再び制止された。ペテロの外的メッセージはイスラームであり、イスラームの解き放ちと抑制は、封印の時を通して貫かれる外的メッセージである。ペテロの人性は神性と結合している。なぜなら、彼に与えられた鍵は天と地との一致を表しているからである。

次回の記事でこの研究を続けます。

祈ることを怠る者は、悪しき者の暗闇に包み込まれる。敵のささやく誘惑は彼らを罪へと誘い込む。そしてそれはひとえに、祈りという神の制定において神から与えられた特権を用いないからである。祈りは、全能の無尽蔵の資源が蓄えられている天の宝庫を開くために、信仰の手に握られた鍵であるのに、なぜ神の子らは祈ることをためらうのか。絶え間ない祈りと怠りなき警戒がなければ、私たちは不注意となり、正しき道からそれてしまう危険にさらされる。仇敵は、私たちが切なる嘆願と信仰によって誘惑に抗するための恵みと力を受けることがないよう、恵みの御座へ至る道を絶えずふさごうとする。

私たちの祈りを神が聞き、応えてくださることを期待しうるには、いくつかの条件がある。そのうちまず挙げられる一つは、私たちが神からの助けを必要としていることを自覚することである。神は、「渇いている者の上に水を注ぎ、乾いた地に大河を注ぐ」と約束しておられる(イザヤ 44:3)。義に飢え渇き、神を慕い求める者は、必ず満たされることを確信してよい。心は御霊の感化に対して開かれていなければならない。さもなければ、神の祝福を受けることはできない。

私たちの切実な必要そのものが、力ある論拠となり、私たちに代わって最も雄弁に嘆願する。しかし、これらのことを私たちのために行っていただくには、主を求めなければならない。主は言われる。「求めなさい。そうすれば与えられる。」また、「御自分の御子をさえ惜しまず、私たちすべての者のために御子を引き渡された方が、どうして御子とともに万物をも惜しみなく私たちに与えてくださらないことがあろうか。」(マタイ7:7;ローマ8:32)

もし私たちが心に不義を抱き、わかっているいかなる罪にも執着するなら、主は私たちの祈りをお聞きにならない。しかし、悔い改めて砕かれた魂の祈りは常に受け入れられる。自ら知っているすべての過ちを正したとき、神が私たちの祈りに応えてくださると信じてよい。私たち自身の功績が神の御好意を得させることは決してない。私たちを救うのはイエスのふさわしさであり、私たちを清めるのはその御血である。とはいえ、受け入れの条件に従うことにおいて、私たちにも果たすべき務めがある。

聞き届けられる祈りのもう一つの要素は、信仰である。 「神に近づく者は、神がおられること、また、神は熱心に御自身を求める者に報いてくださる方であることを、信じなければならない。」ヘブル11:6。 イエスは弟子たちに言われた、「何事でも、あなたがたが祈って求めるものは、それを受けると信じなさい。そうすれば、あなたがたはそれを得るであろう。」マルコ11:24。 私たちは、主の御言葉をそのとおりに信じているだろうか。 『キリストへの道』94-96。

ここに、神のしもべであり、そのメッセージを担う者であると公言しながら、自らを高ぶらせている若い男性たちへの教訓がある。彼らには、エリヤのように自らの経験のうちに顕著なものを何ひとつ見いだすことはできないのに、彼らの目に卑賤と映る務めを果たすことを、自分の身分にそぐわぬことのように感じている。彼らは、しもべの仕事をすることになるのを恐れて、牧職の威厳から身を低くして必要な奉仕に就こうとはしない。そのような者は皆、エリヤの模範から学ぶべきである。彼の言葉は天の宝庫、すなわち露と雨を、三年のあいだ地から閉ざした。彼の言葉こそが、天を開き雨の降り注ぎをもたらす鍵であった。王とイスラエルの数千人の前で彼が素朴な祈りをささげたとき、神は彼を重んじ、その答えとして天から火がひらめき、犠牲の祭壇の上に火を燃え立たせた。バアルの祭司八百五十人を打ち殺すことにおいて、彼の手は神の裁きを執行した。しかしなお、その日の疲労困憊の労苦とこの上なく顕著な勝利の後においても、天から雲と雨と火を呼び下すことのできた彼は、卑しい者の奉仕をも厭わず、暗闇と風雨の中をアハブの戦車の前を走って、彼がその罪と犯罪のゆえに面と向かって叱責することをも恐れなかったその君主に仕えたのである。王は城門の内に入った。エリヤは自らの外套に身を包み、むき出しの地に身を横たえた。 『証言』第3巻, 287頁。