最初の数本の記事では、難癖をつけるユダヤ人たちにキリストがぶどう園のたとえを示されたことを扱う『The Desire of Ages』の一節を取り上げた。ぶどう園の歌のたとえは、十四万四千が歌うモーセと小羊の歌でもあり、また、霊感によって、預言における「歌」は「経験」を表すことが知らされている。十四万四千は、小羊がどこへ行かれるにも従うので、彼らはキリストとモーセが経験したのと同じ経験を歩むであろう。古代イスラエルの預言史において、キリストはオメガであり、モーセはアルファであったが、両者はともに、以前の契約の民が退けられ、新しい契約の民が選ばれつつあった並行する時期に生きた。十四万四千は、以前の契約の民が退けられ、主が最後の契約の民と契約を結ばれるという時代を経験することによって、モーセと小羊の歌を歌うのである。
預言的には、キリストがたとえ話を語られた時、それはペンテコステであれこれ異議を唱えるユダヤ人たちにペテロが語りかけたことと一致している。最後の危機において、イエスが異議を唱えるユダヤ人たちにたとえを示しておられることは、エフライムの酔いどれに向かってぶどう畑の歌を歌う者たちを表している。ペテロはペンテコステで同じ歌を歌っているが、ただそれをヨエルの調で歌っているのである。ぶどう畑の歌とは、かつての契約の民が離縁されるのと同時に、新しい契約の民が主と結ばれる、その時を歌う歌である。失望して待機の時に入った乙女たちは婚礼を待っていたのであり、その完全な成就は、彼女たちが十四万四千人に印が押されるのを待っているということである。
ヨエル書は、その第一章で、ぶどう酒や強い酒を飲む者たちによって神のぶどう園が滅ぼされ、彼らの口からは「新しいぶどう酒」が断たれているさまを描くことから始まる。イエスがユダヤ人に、彼らの王国は取り上げられ、ぶどう園の真の実をもたらす農夫たちの一団に与えられると告げるやいなや、イエスは話の流れを変えて、神殿でいったん退けられたが、やがてかなめ石となるはずの礎の石を引き合いに出した。初めのことが終わりに繰り返されようとしており、この真理が示されるとき、それは「驚くべきこと」と表される。
神の御言葉における「初出の法則」によれば、ヨエルがまずぶどう園の破壊に言及していることから、それが彼の証しの主眼であることがわかる。ヨエルだけではない。すべての大預言者が、イスラエルの罪と失われた状態に言及することから自らの証しを始めている。
イザヤ書二十八章では、「エルサレムを支配する嘲る者たち」は「エフライムの酔いどれ」および「高ぶりの冠」として描かれている。「冠」は指導権を表し、「高ぶり」はサタン的な性質を表す。
酔いどれたちは、神の栄光の「冠」となる残りの者(「残余」)と対比される。というのも、後の雨の時に、主は十字架において「恵みの御国」を樹立されたことによって型示されたとおりに、「栄光の御国」を打ち立てられるからである。十字架における「恵みの御国」は、日曜法における「栄光の御国」を型示している。
後の雨は9/11に始まったが、そのとき十四万四千人への封印と生ける者の審判もまた始まった。封印の時には、聖霊の注ぎが9/11に始まり、イエスが息を吹きかけるように、ほんの数滴をお与えになった。それが基礎であり、「真夜中の叫び」における聖霊の注ぎがその締めくくりである。「Marvelous」は、「9/11から日曜法に至るまで」の霊の注ぎの期間の象徴である。
指導を象徴する「冠」にまつわる、並行しつつも相反する象徴性は、イザヤ書二十八章の物語に示されている。そこでは、エルサレムを治める酔いどれどもが退けられ、神の教会の指導権が残りの者に与えられる。これはぶどう園のたとえを示している。酔いどれの冠は取り去られ、十四万四千人がキリストの御国を表す冠となる。シェブナが遠い国へ放逐され、エリヤキムに置き換えられるとき、イザヤは二十二章でも同じ真理を教えている。エフライムの酔いどれであれ、二十二章のシェブナであれ、いずれも、神のかつての契約の民の指導者層が退けられることを表している。
ゼカリヤ書は、真夜中の叫びでもある凱旋入城を指し示し、その後に続く節は、神の民を冠にたとえて描くことでイザヤ書と一致している。
大いに喜べ、シオンの娘よ。喜び叫べ、エルサレムの娘よ。見よ、あなたの王があなたのところに来られる。彼は義なる者で、救いを携え、へりくだって、ろばに乗り、ろばの子である子ろばに乗って来られる。わたしはエフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を絶ち、戦いの弓も断ち切られる。彼は諸国の民に平和を告げる。彼の支配は海から海へ、川から地の果てまで及ぶ。
またあなたについても、あなたの契約の血によって、私はあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放った。
砦に帰れ、希望を抱く捕らわれ人たちよ。きょうなお、わたしはこう宣言する。わたしがわたしのためにユダを弓として張り、その弓をエフライムで満たし、シオンよ、あなたの子らを奮い立たせて、ギリシアよ、あなたの子らに立ち向かわせ、あなたを勇士の剣のようにするとき、わたしはあなたに倍して報いる。
主は彼らの上に現れ、その矢は稲妻のように放たれる。主なる神はラッパを吹き、南のつむじ風とともに進まれる。万軍の主は彼らを守られる。彼らは食い尽くし、投石の石で打ち従え、飲み、ぶどう酒に酔ったかのようにどよめき、鉢のように満たされ、祭壇の角のようになる。主である彼らの神は、その日に、御民の群れのように彼らを救われる。彼らは、その地に旗印のように掲げられる冠の石のようである。なんと大いなることか、その善、その美しさよ。穀物は若者を喜ばせ、新しいぶどう酒は乙女たちを喜ばせる。ゼカリヤ書 9:9-17。
第十一節(9章11節)はこう述べている。「また、あなたについても、あなたの契約の血によって、私はあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放った。」キリストは一週の間、多くの者と契約を堅くし、その一週は彼の洗礼から始まった。三年半のあいだキリストは人々の間を歩み、その三年半の終わりの時期に、メシアのエルサレムへの凱旋入城を指し示すゼカリヤの予言を成就した。真夜中の叫びは、キリストの死・埋葬・復活へと至る期間の始まりとなった。キリストの洗礼は彼の死・埋葬・復活を表しているので、その三年半の期間の始まりと終わりは同じである。
キリストの洗礼は9/11を象徴しており、9/11は日曜法で終わる期間の始まりを画している。9/11において後の雨は降り始め、日曜法の時にはそれが限りなく注がれる。これは、ペンテコステでの注ぎに先立って、キリストが弟子たちに息を吹きかけ、前もって雨の数滴を与えたことによって型示されている。
ゼカリヤ書9章11節は9/11と一致し、また日曜法へと至る真夜中の叫びとも符合している。9/11の時、ラオディキアのメッセージは、1856年と1888年の時と同様に、現在の真理として到来した。ラオディキアのメッセージは、自分たちが死んでいることに気づいていない人々に与えられる。彼らは「水のない穴」におり、後の雨のメッセージを持たない。彼らの穴には水がないからである。もしラオディキアが心の戸をたたくノックに応えるなら、主は彼らをその穴から引き上げてくださる。日曜法で恩恵期間が閉じるその時まで、彼らは「望みを抱く捕らわれ人」だからである。
またあなたについても、あなたの契約の血によって、わたしは水のない穴からあなたの捕らわれ人を解き放った。砦に帰れ、望みを抱く捕らわれ人よ。きょうもなお、わたしはあなたに倍を返すと宣言する。ゼカリヤ書 9:11、12。
9/11は、1989年に到来したメッセージに力を与えた。そのメッセージは第三天使のメッセージだが、ミラー派の改革運動の構造と用語では、1989年は第一天使の到来とされた。第一天使のメッセージは、1840年8月11日にイスラム教に関する預言の成就によって力を与えられ、そしてそれは、1989年の第三天使の到来もイスラム教に関する預言の成就によって力を与えられることを示している。
1840年8月11日にイスラムに関する預言が確証されたとき、黙示録10章の天使が降臨し、それによって9/11における黙示録18章の天使の降臨を予表した。1840年における第一の天使の力づけと、1844年における第二の天使の力づけは、いずれも9/11における第三の天使の力づけを予表している。1844年4月19日のミラー派の第一の失望によって予表されていたとおり、2020年7月18日は第二の天使の到来であった。ミラー派の歴史における第一と第二の天使の双方の力づけの歴史、そして9/11における第三の天使の力づけの歴史は、2023年7月に到来した真夜中の叫びのメッセージの力づけを証ししている。
封印の期間は9/11に始まり、日曜法で終わる。これは、キリストが後の雨の幾滴かを息を吹きかけて与えることから始まり、ペンテコステで火の舌が世界にメッセージを運ぶところで終わる。ペテロは、ペンテコステをヨエル書の成就であると認めた。それが事実である以上、ペンテコステの季節には明確な始まりと終わりがあり、それがアルファがオメガでもあることを示しているため、キリストの息吹もまたヨエルの成就であったことが確証される。キリストの復活の日には大麦の初穂の捧げ物がささげられ、その五十日後のペンテコステには小麦の初穂の捧げ物が掲げられた。9/11は、日曜法の直前に到来しそれへと導く「真夜中の叫び」を表している。ゼカリヤ9章9節による真夜中の叫びの表象の完全な成就は、2023年7月以降である。
シオンの娘よ、大いに喜べ。エルサレムの娘よ、叫べ。見よ、あなたの王があなたのもとに来られる。彼は正しく、救いを携え、へりくだって、ろばに、しかも子ろばに乗って来られる。ゼカリヤ書 9:9
それゆえ、ゼカリヤは、神の民を冠にたとえるというイザヤの象徴に同意しているが、さらに「彼らは冠の宝石のようであり、その地の上に旗印として掲げられる」と記して、冠が同時に旗印でもあることを付け加えている。さらにゼカリヤは、ヨエルの「穀物」と「新しいぶどう酒」という象徴に結びついた喜びに呼応して、「穀物は若者たちを喜ばせ、新しいぶどう酒は乙女たちを喜ばせる」と述べている。第二十八章におけるエフライムの酔っ払いの記録を考えるにあたって、これは「休息と憩い」を示している聖書の章であることに留意せよ。これは「後の雨」に関する聖書の主要な箇所の一つであるから、このエフライムの酔っ払いは、ヨエルが語る酔っ払いと同じ者たちに違いない。
ああ、エフライムの酔いどれらの高ぶりの冠よ、その栄光の美はしぼみゆく花、酒に呑まれた者らの肥沃な谷の頂にあるそれよ! 見よ、主は強く力ある者を備えておられる。雹の暴風、破壊する嵐のように、みなぎる大水の洪流のように、それは手で地に投げ打つ。 高ぶりの冠、すなわちエフライムの酔いどれらは、足の下に踏みにじられる。 そして、肥沃な谷の頂にあるその輝かしい美は、しぼみゆく花となり、夏に先立つ早成りの実のようになる。見る者がそれを見るや、まだ手にあるうちに食べ尽くしてしまう。 その日、万軍の主は、その民の残りの者にとって栄光の冠、美の宝冠となり、 裁きの座に座る者には裁きの霊となり、戦いを門まで押し返す者らには力となる。 しかし彼らもまた、ぶどう酒によって迷い、強い酒によって道を外れた。祭司も預言者も強い酒によって迷い、ぶどう酒に呑み込まれ、強い酒によって道を誤る。彼らは幻において誤り、裁きにおいてつまずく。 すべての食卓は嘔吐物と汚れで満ち、清いところがひとつもない。 ...
立ち止まって、驚け。叫べ、なお叫べ。彼らは酔っているが、ぶどう酒によるのではない。彼らはよろめくが、強い酒によるのではない。主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目を閉ざし、預言者やあなたがたの支配者、先見者たちを覆った。そして、すべての幻は、あなたがたには封印された書の言葉のようになっている。人々がそれを学のある者に渡して、「どうかこれを読んでください」と言うと、彼は言う、「読めません。封印されているからです。」また、その書を学のない者に渡して、「どうかこれを読んでください」と言うと、彼は言う、「私は学がありません。」
それゆえ主は言われた。 この民は口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れ、わたしに対する彼らの恐れは人間の戒めによって教え込まれたものである。 それゆえ、見よ、わたしはこの民の間で驚くべきわざ、まことに驚くべきわざと不思議を行う。 彼らの知者の知恵は滅び、慎み深い者の悟りは隠されるからだ。 主からその計りごとを深く隠そうとし、その業を暗闇で行い、「だれがわれわれを見るのか。だれがわれわれを知るのか」と言う者たちにわざわいあれ。 まことに、あなたがたは物事をさかさまにしている。 それが陶器師の粘土のように見なされるというのか。 造られたものが、それを造った者について「彼は私を造らなかった」と言えるだろうか。 また、形作られたものが、それを形作った者について「彼には理解がなかった」と言えるだろうか。 イザヤ書 28:1-8;29:9-16。
主は、エフライムの酔った者たちの間で「驚くべきわざ」を行われ、彼らの知恵と悟りを取り去られる。これらは、預言のメッセージの封印が解かれるとき、知識の増し加わりを悟ることに結びつけられている、まさにその二つの要素である。悟るのは賢い者である。「驚くべきわざ」の一部は、ユダ族の獅子によって封印を解かれた知識を、エフライムの酔った者たちの心から取り除くことである。賢い者と悪しき者の選り分けは、主の「驚くべきわざ」の一部である。それが永遠の福音である。キリストが、ぶどう園のたとえを通して言い争うユダヤ人たちを導き、こうして彼ら自身に自分たちの裁きを宣告するところへと追い込んだ後、彼は詩篇118篇から一つの問いを発せられた:
家を建てる者たちが捨てた石が、隅のかしら石となった。これは主がなさったこと、私たちの目には不思議である。これは主が造られた日。私たちはこの日を喜び楽しもう。詩編 118:22-24.
主はエフライムの酔いどれどもに対して「驚くべき業と不思議」を行い、それには彼らの真理を見分ける力を取り去ることが含まれている。「隅のかしら石」は、ヨエルの「新しいぶどう酒」を持つ者の目には、驚くべきものだ。
酔った者たちは封印された書を読むことができない。彼らが「学のある者」として表される指導者であろうと、「無学の者」として表される平信徒であろうと同じである。 「封印された書」として表されている聖書の預言的な証しを、酔った者たちが正しく理解することは不可能である。 また、酔った者たちは二度にわたって「道を外れている」と特定されている。 これもまたイザヤ書二十八章に記録されている。そこは聖書における後の雨に関する主要な箇所であり、イザヤは酔った者たちが聞こうとしなかった「安息と憩い」を示している。 「安息と憩い」はメッセージである。なぜなら、それは聞くことができるからだ。
その酔いが、酔いどれたちを、エレミヤの言う「昔からの道筋」から外れさせた。その「道筋」は、人が歩むべき「道」であり、エレミヤが「安息」として表現した「後の雨」を見いだす道である。エフライムの酔いどれたちによる「後の雨」のメッセージの拒否は、神の御言葉が特定の主題として扱っている事柄である。彼らが酔っているのは、十四万四千人の歴史、すなわち「後の雨」の歴史の設計図を与える土台となる歴史へ立ち返ることを拒んだからである。
エフライムの酔っている者たちに対して行われる「驚くべきわざ」は、後の雨の注ぎの間に起こる。後の雨の期間には、試みのメッセージが二種類の礼拝者を生み出し、彼らがあずかる「ぶどう酒」によってそれが示される。悪しき者たちは、聖なる歴史の筋道に基づいて預言の適用を行うことを拒み、イザヤ書二十八章の「行に行、句に句」という方法を用いる者たちは「新しいぶどう酒」にあずかる。悪しき者たちの酩酊は、預言を理解できないことによって現れ、彼らの盲目の状態は、土台となる古き道に立ち返ろうとしなかったことによって引き起こされた。イエスは、難癖をつけるユダヤ人たちに、捨てられた石が隅のかしら石となることを読んだことがあるのかと問い、彼らを叱責された。
隅のかしらとなる石は、土台、すなわち礎石が頂石において再現されるという預言的真理を表している。アルファの石はオメガの石でもある。行に行を重ねるという方法論(後の雨の方法論)を確立し支える主要な預言的原則は、物事の初めがその終わりを例証するということである。ミラー派運動における主要な預言的原則は、一日を一年とする原則であり、それは黙示録十章の天使が降りてきたときに確証された。十四万四千の運動における主要な預言的原則は、初めが終わりを例証するということであり、それは黙示録十八章の天使が降りてきたときに確証された。
神の預言のことばは、後の雨に関わる要因の説明においてきわめて詳細である。その事実の一つは、エフライムの酔いどれは後の雨を認識できないということであり、これは、弟子たちは酔っているのだとペテロに言ったユダヤ人によって型示されていた。方法論の主要原則は、神のことばの中で「アルファとオメガ」として繰り返し直接に示されているが、そのことばは彼らには封じられている。その方法論、主要な預言の規則、そして後の雨のメッセージは、「驚くべきわざ」として表される一つの預言的な歴史の流れにおける聖別された主題のいくつかである。
再び、万軍の主の言葉が私に臨んだ。万軍の主はこう言われる。わたしは大いなる妬みをもってシオンを妬み、激しい憤りをもって彼女を妬んだ。 主はこう言われる。わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。 万軍の主はこう言われる。なおエルサレムの通りには老人も老女も住み、年老いてそれぞれ手に杖を持つ。また、その都の通りは、そこで遊ぶ男の子と女の子で満ちる。
万軍の主はこう言われる。「この日々に、この民の残りの者の目にそれが不思議に見えるとしても、それがわたしの目にもまた不思議であろうか」と万軍の主は言われる。万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは東の地からも西の地からも、わが民を救い出す。わたしは彼らを連れ戻し、彼らはエルサレムのただ中に住む。彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義において彼らの神となる。」万軍の主はこう言われる。「この日々に、預言者たちの口によって語られたこれらの言葉を聞く者たちよ、あなたがたの手を強くせよ。その言葉は、神殿が建てられるように、万軍の主の宮の基礎が据えられた日に語られたのだ。というのは、これらの日の前には、人にも獣にも賃金がなく、圧迫のために、出て行く者にも入って来る者にも平安がなかったからだ。わたしがすべての人を、それぞれ隣人に敵対させたからである。しかし今は、わたしはこの民の残りの者に対して、昔の日のようにはしない」と万軍の主は言われる。ゼカリヤ書 8:1-11。
ゼカリヤはこう述べている。「神殿が建てられるために、万軍の主の家の基が据えられたその日に、預言者たちの口によって語られたこれらの言葉を、これらの日に聞いている者たちよ、あなたがたの手を強くせよ。」神の民を強めるのは、礎石が親石となるというメッセージである。そのメッセージとは、ミラー派の歴史が十四万四千人の歴史の中に繰り返されるということである。
キリストはこう問う。「もしこの時代に、この民の残りの者の目にそれが不思議なことに見えるなら、わたしの目にもそれは不思議なことなのだろうか。」 その問いは、すべての預言者の主題である神の「驚くべきわざ」の預言的時期を指し示すだけでなく、十四万四千人のラオディキヤ的運動が十四万四千人のフィラデルフィア的運動へと変わる時をも示している。これは彼らが印される時点と同じであり、運動が戦う段階から勝利の段階へと移行する時点でもあって、この人々の間で神性と人性の結合のわざが成就し、聖所がまことに清められるところでもある。 これは、主の「驚くべきわざ」によって表される預言的歴史が神の目にも残りの者の目にも驚くべきものであり、しかも「目と目とが合う」ことが一致の象徴であると語る聖句において認められる。ここで表されている一致とは、子羊の行くところどこへでも従い、罪を犯してキリストの品性を誤って示すくらいならむしろ死を選ぶ段階に達した神の民が印されることを指している。
ミカは古代イスラエルの基礎となる歴史を「驚くべき事柄」と見なしている。
あなたがエジプトの地から出て来た日々のように、わたしは彼に不思議なことを見せる。ミカ書 7:15。
「驚くべきわざ」とは、基礎となる歴史のことであり、その基礎となる歴史が、頭石に象徴される終わりの歴史において繰り返されるがゆえに「驚くべき」なのである。「驚くべきわざ」とは、隅のかしら石に始まり、「頭石」で終わる歴史である。彼の「驚くべきわざ」はモーセの歴史において現され、キリストの歴史において繰り返された。モーセは隅のかしら石であり、キリストは頭石であった。預言的に言えば、モーセはアルファであり、キリストはオメガである。
「聖書の歴史のまさに初めであるモーセから始めて、キリストは聖書全体にわたり、ご自身に関する事柄を解き明かされた。」The Desire of Ages, 797.
モーセは教え、ペンテコステの日にペテロはモーセの言葉を用いて、モーセがキリストの型であったことを示した。
しかし、神があらかじめすべての預言者の口を通して、キリストが苦しみを受けるべきことを示しておられたそのことを、このように成就された。ゆえに、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ、主の御前から憩いの時が訪れ、あなたがたに先に宣べ伝えられたイエス・キリストを神はお遣わしになる。この方は、世の初め以来、神がその聖なるすべての預言者の口を通して語ってこられた万物の回復の時が来るまで、天にとどまっていなければならない。モーセは確かに先祖たちにこう言いました。「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私に似たひとりの預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに語ることは何であれ、すべて彼の言うことを聞きなさい。そして、その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から断ち滅ぼされるであろう。」また、サムエルから後に続くすべての預言者も、語った者は皆、この日々のことを同じように前もって告げている。使徒の働き 3:18-24
ペンテコステの聖霊の注ぎの際、ペテロが行ったモーセについての第二の証言によって、「アルファとしてのモーセ、オメガとしてのキリスト」という位置づけが確立された。そしてそのことによって、ペテロは、後の雨のメッセージ(およびそれに対して提起された論争)の主要な要素が「アルファとオメガ」という預言的原則であることを強調し、明らかにしている。この原則は、ミラライト運動の歴史において日年原則が果たした役割に対応する、十四万四千人にとっての原則である。「アルファとオメガ」の原則とは「基礎が頂石となる」という原則であり、また「モーセと小羊」の原則でもある。ゆえに、それは霊感によって「ぶどう畑の歌」の一節として示されており、それはまた「モーセと小羊の歌」でもある。
さまざまな預言の線によって示される「始め」と「終わり」は、神がご自身の「驚くべきわざ」を成就される歴史を表しており、そして「驚くべきわざ」という象徴が何を表すのかを認識することによって引き出される光こそが、ラオデキヤの者をフィラデルフィアの者へと変え、建てられつつある宮の石とさせるのであり、これは主がご自身の宮に突然来られた1844年10月22日に至るまでの46年間にミラー派の宮が建て上げられたのと同様である。
もしあなたがたが、主の恵み深さを味わい知っているのなら、人々には確かに退けられたが、神に選ばれ尊ばれた生ける石である方のもとに来て、あなたがた自身も生ける石として霊的な家に造り上げられ、聖なる祭司職となり、イエス・キリストによって神に受け入れられる霊的ないけにえをささげる者とされます。ゆえに、聖書にもこうあります。「見よ、わたしはシオンに選ばれた尊い要の石を据える。彼を信じる者は決して恥を見ることがない。」この方は、信じるあなたがたには尊いのですが、従わない者たちにとっては、「家を建てる者たちが退けた石が、隅のかしら石となった」のであり、また「つまずきの石、妨げの岩」となりました。彼らは御言葉に従わないためにつまずくのですが、そのために定められていたのです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを暗やみからその驚くべき光へと召してくださった方の栄誉を宣べ伝えるためです。あなたがたは、かつては民ではなかったが今は神の民であり、あわれみを受けなかったが今はあわれみを受けた者なのです。ペテロの第一の手紙 2:3-10
神の驚くべき光の中へと召されることは、その呼びかけがいつなされるかを明らかにする。というのも、1888年の道しるべは、霊感によってモーセのアルファの歴史におけるコラの反逆に対応づけられており、それを終わりの日々に持ち込むと9/11と一致するからである。霊感によれば、そのとき第三天使とともにラオデキアのメッセージが到来する。預言におけるラオデキア人は「盲目」であり、すなわち彼らは暗闇の中にいる。そして暗闇から出て来るようにとの呼びかけは、1856年、1888年、そして9/11にラオデキアのメッセージが到来したときに始まった。9/11において、「暗闇から出よ」という呼びかけは、黙示録十八章の天使の光を理解するようにとの呼びかけであるだけでなく、神の「驚くべきわざ」が完全な成就を遂げるまさにその歴史の中へ、聞く者を招き入れる呼びかけでもあった。
過去三十年間にわたり繰り返し示されてきたのは、「永遠の福音」の預言的定義とは、預言的真理の封印が解かれて明らかにされ、それが三段階の試験過程を開始するという歴史であり、その三つの試験には二つの際立った特徴があるということである。最初の二つの試験は第三の試験とは性質が異なる。というのも、第三の試験は第一と第二の試験に合格したかどうかを示す決定的な試金石となるからである。永遠の福音におけるもう一つの相違点は、次の試験に進むには現在の試験に合格しなければならないということである。
「不思議なみわざ」の歴史はまた、「永遠の福音」が頂点に達する歴史でもある。というのも、第一の天使によって告げられ、永遠の福音とされている「裁きの時」は、9/11に始まって完全に成就するからである。ミラー派に対して警告されていたその裁きは、十人の乙女のたとえで戸が閉じられた1844年10月22日のことであり、こうして同じたとえで戸が再び閉じられる日曜法の時を予表している。9/11は、ミラー派が調査審判の時が1844年10月22日に始まったと告げたのと同様に、神の執行審判の時が日曜法において始まることを告げている。
9/11から日曜法に至るまでの期間は、「神々の驚くべきわざ」として表現され、また「『隅のかしら』となる礎石」のように、また「ペンテコステの季節」のように、また「ハバクク書第2章」のように、また「十四万四千人の封印の時」のように、また「獣の像の試練の時」のように、また「永遠の福音」のように、また「1840年から1844年までの聖なる歴史」のように、また「黙示録第10章の歴史」のように、また「キリストの洗礼からその死に至るまでの歴史」のように表されている。
彼の洗礼によってフラクタルとして表された歴史は、十字架で終わった2520日間の期間の始まりとなった。キリストの洗礼は、彼の死、葬り、復活を表しており、それは1260日間の終わりに文字通り成就した。
キリストのバプテスマのときに聖霊が下ったことは、9/11にヨハネの黙示録18章の天使が降臨することを予表していた。預言的1260日後に、バプテスマによって象徴されていた出来事が十字架で文字通り成就した。バプテスマから十字架に至る歴史には、期間の終わりに文字通り成就する象徴的な「アルファの歴史」が含まれている。「アルファの歴史」と「オメガの歴史」は、全体の歴史のフラクタルである。バプテスマから十字架に至る歴史は「神の驚くべき御業」であり、その歴史は「キリストのバプテスマ」によっても、また彼の文字通りの「死・埋葬・復活」によっても表されている。それゆえにまた、「紅海における古代イスラエルのバプテスマ」によっても、さらに「ノアの時代における八人のバプテスマ」によっても表されている。これらすべての期間は、彼の「驚くべき御業」の歴史を表している。
復活の象徴としての数字8について言えば、箱舟にいた八人の魂こそが、数字8が象徴として最初に言及された例であり、初出原理によれば、預言的な細部はすべてその初出に含まれている。八人の魂は古い世界から新しい世界へ向かっているではないか。
あの八人は雨の時を生き延びましたが、雨の到来についての警告のメッセージを退けた者は皆、死にましたよね? 拒まれた警告のメッセージ、閉ざされた戸、雨、そして新しい地という歴史によって示されているように、新しい地へ行く「8」人は、旧世界から新世界への時代区分の転換を経験しました。
十四万四千人である八人を特徴づける経綸的な変化は、ラオデキアからフィラデルフィアへの移行であり、またそれは、麦と毒麦から成る戦う教会から、全世界が見るために旗印として掲げられる初穂の麦のささげ物だけから成る勝利の教会への移行でもある。荒波の海にただ一艘の舟を見るようなものだ。その人々は七に属する八であり、箱舟の航海と紅海の渡りの歴史は、どちらも彼の「驚くべきわざ」の例証である。
その魂たちは、黙示録11章11節の成就としてよみがえらされた者たちである。彼らは、八日目に行うべきとされた割礼によって契約のしるしを身に帯びた彼らの父祖アブラハムに代表される、神の契約の民である。
これらの線はすべて同じ期間を表しており、その期間は9/11の基礎から始まり、日曜法で終わる。9/11は礎石であり、日曜法は冠石である。ネヘミヤとエズラの時代のエルサレム再建の歴史では、第一の勅令の時代に基礎が完成し、神殿自体は第三の勅令よりもはるか前に完成した。ミラー派の歴史では、1843年の図表が1842年5月に公刊されたときに基礎が据えられた。ミラー派の神殿は1798年から1844年までの46年をかけて建てられることになっていた。1844年10月22日以前にミラー派の神殿は完成し、その冠石は真夜中の叫びであった。1844年10月22日に真夜中の叫びが終結したとき、紀元前457年のアルファ、すなわち第三の勅令は、1844年のオメガにおいてその対応物と一致した。2300年のアルファとしての紀元前457年と、オメガとしての1844年である。どちらもある次元では同一である。というのも、勅令も天使もともにメッセージであり、両者とも日曜法を型どっているからである。そこでは勅令が出され、第三天使のメッセージが大いなる叫びへと膨れ上がる。
紀元前457年から紀元前408年までの49年間は、ユダヤ人が「通りは再び建てられ、城壁も、困難な時にも建てられる」ことを成し遂げる期間であると、ダニエルによって特定された。
それゆえ知り、悟れ。エルサレムを復興し再建するようにという命令が出されてから、メシアなる君に至るまで、七週と六十二週である。広場は再び建てられ、城壁もまた、苦難の時にも再建される。ダニエル 9章25節
紀元前457年と1844年は、2300年の預言におけるアルファとオメガである。アルファとオメガとして同一であるため、両者はいずれも日曜法を象徴している。1844年の失望は、霊感によって十字架の失望と一致させられている。もし1844年が十字架を象徴しているのであれば—実際そうである—そのアルファに当たるもの(紀元前457年)も同様である。1844年から1863年までは、第三の天使の試練の過程を示している。その試練の過程は、「困難な時に行われる街路と城壁の工事の完成」と「第三の勅令、すなわち日曜法の勅令」との間の49年間によって表されている。
紀元前457年から紀元前408年までは、二千三百年の期間におけるアルファの歴史であり、それは1844年から1863年までのオメガの歴史を例証している。これら二つの歴史は、日曜法で封印された後から人間の猶予期間が閉じられるまでの十四万四千人の歴史を示している。十四万四千人の働きは、人々を「古き道」へ呼び戻すことであり、それはイザヤによって古い荒れ跡を建て直すこととして描かれ、またエレミヤによって後の雨のメッセージへ至る道として示されている。「壁」は神の律法であり、十四万四千人はそれを全世界への旗印として掲げることになる。これは、イスラムが諸国を怒らせるがゆえに、イスラムの第三の災いという艱難の時に起こる。この働きと苦難の時は、ミカエルが立ち上がるまで続く。
つまり、紀元前457年から紀元前408年までが第三の勅令から始まる預言的期間であり、1844年に第三の天使の到来とともに始まり1863年に終わる預言的期間を型として表していた、と理解できるなら、そのとき、2300年の予言において始点または終点としての結び付きが、両者を互いに対してアルファとオメガとして特徴づけていることが分かる。ネヘミヤの苦難の時代は、内戦に至るまでの、そしてそれを含む苦難の時を示している。アルファの歴史における49年の期間は、オメガの歴史における19年の期間を表している。その19年の期間は、イザヤの65年の予言の冒頭の19年によっても表されていた。
アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。六十五年のうちに、エフライムは打ち砕かれて、もはや民ではなくなる。イザヤ書 7:8
イザヤはこの預言を紀元前742年に示し、19年後の紀元前723年に北王国は捕囚となり、その期間は2520年に及び、1798年に終わった。紀元前742年から紀元前723年までの19年は、1844年から1863年までの19年と一致しており、最初の19年がこの預言のアルファ、最後の19年がオメガである。その19年の期間の中で、邪悪なアハズ王は、8節に「七つの時」のメッセージとして表されている後の雨のメッセージを携えたイザヤに直面した。アハズはそのメッセージを拒み、1863年のラオデキヤ的ミラー派アドベンチズムも同様であった。
その時期、アハズの大祭司がアッシリアを訪れ、彼らの異教の神殿の設計図を持ち帰り、アハズはそれを神の神殿の中庭に建てさせた。この流れは、来たのと同じ道でユダに戻ってはならなかったのに戻ってしまい、偽りを語る偽の預言者に欺かれた不従順な預言者の物語と並行しており、それは、「七つの時」に関するミラー派の理解から身を隠すために、背教的なプロテスタントの方法論へと回帰することを表している。これは、犬が自分の吐いたものに戻るという典型的な成就である。
これは、北王国と南王国の間で内戦が始まりつつある最中に起こっており、そのことによって、19年という期間が繰り返されたアメリカ合衆国の南北戦争を象徴している。紀元前742年から紀元前723年までは、1844年から1863年までの19年間を表しており、それは日曜法から猶予の終わりまでの期間を表している。9/11から日曜法に至るまでの歴史は、アメリカ合衆国内における「獣の像」の試練の歴史であり、それは日曜法から始まる世界的な「獣の像」の試練において再現される。このため、日曜法から猶予の終わりまでを表す19年の期間は、9/11から日曜法に至る歴史もまた表しており、それは主の「驚くべき御業」の歴史である。
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主の言葉が私に臨み、こう言われた。「人の子よ、イスラエルの地でお前たちが言っている『日は延び、すべての幻はむなしくなる』ということわざは何だ。それゆえ彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしはこのことわざを廃する。イスラエルでは二度とこれをことわざとして用いさせない。むしろ彼らに言え、「日は近づき、すべての幻の成就も近い」と。』イスラエルの家のうちには、もはやむなしい幻も、へつらいの占いもない。わたしは主である。わたしが語れば、わたしの語る言葉は成就する。もはや長引かせはしない。反逆の家よ、お前たちの時代に、わたしは言葉を語り、それを行う」と、神である主は言われる。
再び、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、見よ、イスラエルの家の者たちはこう言っている。『彼の見ている幻は多くの日の後のことであり、彼ははるか先の時のことを預言している』と。それゆえ、彼らに言え。主なる神はこう言われる。『もはや私の言葉は遅らされることはない。私が語った言葉は必ず成就する』と、主なる神は言われる。」エゼキエル書 12:21-28。