彼が誰に知識を教え、誰に教えを理解させるのか。乳離れした者、乳房から引き離された者たちなのか。
命令に命令を、命令に命令を。規則に規則を、規則に規則を。ここにも少し、あそこにも少し。というのも、彼はどもる唇と異なる言葉をもって、この民に語られるからである。彼らにこう言われた。「これこそ、疲れた者を休ませる安息であり、これこそ、憩いである。」しかし、彼らは聞こうとしなかった。
しかし、主の言葉は彼らには、教えに教えを、教えに教えを、規定に規定を、規定に規定を、ここに少し、あそこに少し、というものになった。彼らが出て行き、後ろに倒れ、砕かれ、罠にかかり、捕らえられるためである。
それゆえ、エルサレムにいるこの民を治めるあざける者たちよ、主の言葉を聞け。お前たちはこう言ったからだ。「我らは死と契約を結び、よみと協定を結んだ。あふれ来るむちが通り過ぎても、それは我らに来ない。偽りを我らの避け所とし、虚偽の下に身を隠したからだ。」それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはシオンに土台として一つの石、試された石、貴い隅の石、堅固な礎を据える。信じる者は慌てることがない。わたしはまた、裁きを測り縄とし、義を下げ振りとする。雹は偽りの避け所を掃き去り、水は隠れ場にあふれ込む。あなたがたの死との契約は無効にされ、よみとの協定は立たない。あふれ来るむちが通り過ぎるとき、あなたがたはそれに踏みにじられる。イザヤ書 28:9-18。
エルサレムを支配する嘲る者たちは、ラオデキアのセブンスデー・アドベンチスト教会の指導者たちであり、イザヤはその数節前に彼らを「エフライムの酔いどれ」と「誇りの冠」と呼んでいる。五旬節のとき、ペテロは、そのメッセージが酔った人々によって宣べ伝えられていると主張する者たちに応答した。後の雨の時期は、真の後の雨のメッセージと偽の後の雨のメッセージをめぐる時期である。主からのメッセージは常に礼拝者を二つの階級に分け、その二つの階級はどちらもぶどう酒を飲む。聖別されたメッセージ、すなわち聖別されたぶどう酒こそが、ヨエル書で不忠実な者たちの口から断たれるものである。
酔いどれどもよ、目を覚まして泣け。ぶどう酒を飲む者はみな、新しいぶどう酒のゆえに泣き叫べ。それはあなたがたの口から断たれたからだ。ヨエル書 1:5
ヨエル書第1章では、ぶどう園の邪悪な農夫たちが、ラオデキアのセブンスデー・アドベンチスト教会を象徴する者として、彼らの口から「新しいぶどう酒」が「断たれる」ことに関連して非難され、裁かれている。神は、邪悪な酔いどれの農夫たちから、「肉と飲み物の供え物」によって象徴されている「後の雨」における神の御霊の注ぎを断ち、また差し控えた。
主の家から穀物のささげ物と注ぎのささげ物が断たれ、主の奉仕者である祭司たちは嘆く。畑は荒れ果て、地は嘆き悲しむ。穀物が荒らされ、新しいぶどう酒は干上がり、油は乏しくなった。恥じよ、農夫たちよ。ぶどう作りたちよ、小麦と大麦のために泣き叫べ。畑の収穫が滅びたからだ。ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれた。ざくろの木も、なつめやしも、りんごの木も、野のすべての木々は枯れてしまった。人の子らから喜びが枯れ去ったからである。身を帯し、嘆け、祭司たちよ。祭壇に仕える者たちよ、泣き叫べ。来て、わが神に仕える者たちよ、粗布をまとって夜通し横たわれ。あなたがたの神の家から穀物のささげ物と注ぎのささげ物が差し止められたからだ。断食を聖別し、厳粛な会を招集せよ。長老たちと地のすべての住民をあなたがたの神、主の家に集め、主に叫べ。ああ、その日よ!主の日が近い。全能者からの滅びとしてそれは来る。われらの目の前で食物が絶たれているではないか。そう、われらの神の家から喜びと楽しみが絶たれているではないか。ヨエル書 1:9-16
イザヤ書の「エフライムの酔いどれたち」がヨエル書で「目を覚ます」とき、彼らが目を覚まして直面するのは、後の雨のメッセージ――「新しいぶどう酒」として表されているもの――である。それは神に選ばれた契約の民から差し控えられてきた。本文の「Corn」は穀物一般を指す語であり、神のことばは天からのパンで、この箇所ではそれが「無駄にされている」。
「新しいぶどう酒」とは、9/11に到来した現在の真理のメッセージである。 「新しいぶどう酒は干上がった」および「新しいぶどう酒は断たれた」ということは、エレミヤの「古い」道に立ち返る者にしか認識されない。なぜなら、「新しい」メッセージは常に「古い」メッセージと一致しているからである。 「干上がった」と訳されている語は、ヘブライ語で「恥じる」を意味する。
『恥じている者たち』は、ヨエル書や他の預言書における主要な主題である。エフライムの酔いどれたちは、自分たちの偽りの『後の雨』のメッセージを恥じているが、それはしばしば『平和と安全』のメッセージと呼ばれる。穀物、新しいぶどう酒、油という三つの象徴は、後の雨のメッセージを表している。後の雨は、聖霊の注ぎとしても表される。
聖霊の働きは、罪と義とさばきについて、しかもまさにその順序で、人にその誤りを認めさせることである。神のことばは罪を認めさせ、「穀物」によって表される。「新しいぶどう酒」を有していることは、聖霊を有している者であることを示す。聖霊は「雨」によっても「ぶどう酒」によっても表される。というのも、「雨」と「ぶどう酒」はいずれも、メッセージまたは教理として容易に示しうるからである。
しかし、私はあなたがたに真実を告げる。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる。わたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来ない。しかし、わたしが去れば、わたしは彼をあなたがたのところに遣わす。彼が来ると、罪と義と裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪については、彼らがわたしを信じないからであり、義については、わたしが父のもとへ行き、あなたがたはもはやわたしを見ないからであり、裁きについては、この世の君が裁かれたからである。わたしはなおあなたがたに言うべきことが多くあるが、今はそれに耐えられない。しかし、その方、真理の御霊が来るとき、彼はあなたがたをすべての真理へと導く。彼は自分から語るのではなく、聞くことを何でも語り、やがて起こることをあなたがたに示す。ヨハネによる福音書 16:7-13.
ヨエルの「穀物」は神の言葉であり、それは「罪」を自覚させる。「義」は、「新しい」(現在の真理)「ぶどう酒」(メッセージ)として表されている現在の真理のメッセージを通して、人性を神性と結びつけた者たちによって現される。「油」は「裁き」の象徴である。というのは、「裁き」は、裁かれる者が「油」を持っているかどうかに基づくからである。ヨエルの穀物、新しいぶどう酒、油とは、罪、義、裁きの自覚である。後の雨の注ぎに関連する聖霊の働きのあらゆる要素は、ヨエルが彼らに「目を覚ませ!」と命じる9/11に始まり、ラオデキア的アドベンチズムを試すことになる真理を構成している。
後の雨のメッセージの三つの象徴は、黙示録十四章の三天使のメッセージに対応しており、「農夫たち」は「恥じるべき」で、「ぶどう作りの人々」は「嘆き叫ぶべき」である。ヨエル書では、神の民は決して恥をこうむることはない。
あなたがたは、わたしがイスラエルのただ中におり、わたしが主、あなたがたの神であって、ほかにはいないことを知る。わたしの民は決して恥を見ることがない。ヨエル書 2:27。
農夫とぶどう園の世話人は、彼らが掲げる偽の「後の雨」のメッセージが、彼らに世話するよう任されたぶどう園にいのちを生み出す力がないゆえに、恥じて嘆き叫ぶ。アドベンティズムは自らの女預言者から、自分たちが「後の雨」の経験を成就するよう召されたことを知っているが、畑の実りはしおれている。彼らは恥じ、特に「小麦と大麦のために」泣く。キリストの復活の日の「大麦」の初穂のささげ物がペンテコステの季節を始め、その季節はペンテコステにおける「小麦」の初穂のささげ物で終わった。エフライムの酔いどもは、彼らがペンテコステの季節の誤った側にいるゆえに、恥じている。この季節は、9/11から日曜法に至るまで、「後の雨」が降っているときに繰り返される。
多くの人は、初雨を大いに受け損なっている。彼らは、このようにして神が彼らのために備えられた恵みを、余すところなく受けてはいない。足りない分は後の雨が満たしてくれると期待している。最も豊かな恵みが授けられるときに、それを受けるために心を開くつもりでいる。これは恐るべき誤りである。神がその光と知識を与えて人の心に始められた業は、絶えず前進し続けなければならない。一人ひとりが自分の必要を悟らなければならない。心はあらゆる汚れを取り除いて空にし、聖霊の内住のために清められなければならない。初代の弟子たちは、罪を告白して捨て、熱心に祈り、自らを神にささげることによって、五旬節の日に聖霊の注ぎを受ける備えをした。同じ業を、ただしよりいっそう大きな程度で、今なさなければならない。そのとき人は祝福を求め、自分に関する業を主が成就してくださるのを待つだけでよかった。業を始められたのは神であり、神はイエス・キリストにあって人を完全にして、その業を完成してくださる。しかし、初雨に象徴される恵みをおろそかにしてはならない。与えられている光に従って生きている者だけが、さらに大いなる光を受ける。私たちが日々、生きたキリスト者の徳を実践することにおいて前進していなければ、後の雨における聖霊の現れを認めることはできない。それは私たちの周りの人々の心に降り注いでいるかもしれないが、私たちはそれを見分けることも受けることもできないであろう。『牧師たちへの証言』506、507頁。
ホワイト姉妹が「ペンテコステの季節」と呼ぶ一連の流れの文脈において、「初雨」とは、キリストが復活後、天上での会見を終えて地に戻られたのち、弟子たちに息を吹きかけられたことを指す。「後の雨」はこの文脈ではペンテコステであった。ペンテコステの季節のアルファでは、弟子たちは幾滴かの息吹を受け、オメガでは、その息吹を受けた弟子たちが全世界に向かって火の舌で語っていた。初めにも終わりにも聖霊の現れがある。初めには、神性がメッセージを通して人類に聖霊を授け、終わりには、舌(人性)と火(神性)に象徴されるように神性と人性が結合し、メッセージを通して人類に聖霊を授ける。初めの大麦の初穂の供え物はキリストの復活に対応し、ペンテコステの初穂の供え物である小麦の二つのパンはペンテコステに対応する。
その二つのパンは、罪の象徴であるパン種を含んだ唯一の供え物であった。パンは焼かれ、こうして罪が取り除かれることを表したが、同時に、二つの揺り動かすパンが十四万四千人を表し、彼らがマラキ書三章の契約の使者によってその罪を清められた罪人であったという真理をも確証している。こうして、ペンテコステの季節のアルファは天からのパンが弟子たちを教えることを表し、その季節のオメガは、その同じ弟子たちが天に掲げられる二つのパンとして象徴された。したがって、神性と人性を象徴する火の舌と、弟子たちがそのメッセージを世界へ携えて行くことを予表した揺り動かす供え物を高く掲げることというしるしが結び合わさって、十四万四千人がイエス・キリストを完全に表す供え物として高く掲げられるべきであることを指し示し、そしてイエス・キリストは、神性と人性が結合しても罪を犯さないことを体現している。
「前の雨」を受け取らないまま、「神が『前の雨』とともに『与えた』すべての恵みの『欠如』は『後の雨が補ってくれる』と期待するのは、「恐るべき誤り」である。前の雨とは、エレミヤの「いにしえの道」のことであり、9/11に歩むべき道として示された。それは「恐るべき誤り」であるだけでなく、強い惑わしでもあり、人々に自分たちの後の雨のメッセージが岩の上に築かれていると思い込ませ、結局そのメッセージが砂の上に築かれていたことを思い知らされる。
ペテロは、後の雨の期間における十四万四千人の表象において、誰が酔っており、誰が酔っていないのかを率直に説明することを恥じなかった。すべての預言者は終わりの日々について語っており、ヨエルは「エフライムの酔いどれども」が目を覚まし、後の雨の力のもとで第三天使の大いなる叫びを宣べ伝える民となる特権が永遠に取り去られたことを示す明白な証拠に直面していることを指摘している。十四万四千人は、9/11から日曜法に至る後の雨の期間において形成され、封印される。彼らは、子羊が行くところにはどこへでも従う者たちである。
ペンテコステのときのペテロは、ヨエル書に基づく後の雨のメッセージを宣べ伝える人々を代表している。歴史を通じてペンテコステを守る責務を与えられていたユダヤ人に対し、ペテロは、これまでのすべてのペンテコステが先取りして指し示していたペンテコステが今や成就しているのだと告げていた。ユダヤ人はエフライムの酔いどれとしてバビロンのぶどう酒に酔いしれており、ヨエル書の文脈に即して後の雨のメッセージを語っていたペテロと十一人を、かえって酔っていると非難した。ヨエル書一章五節でエフライムの酔いどれが「目を覚ませ」と呼びかけられるとき、彼らは二つの陣営が形成される後の雨の試練の過程に直面する。その試練の過程で、一方の陣営は後の雨のメッセージを認め、もう一方は認めない。
私たちは後の雨を待っていてはならない。それは、私たちに降り注ぐ恵みの露と雨を認めて受け入れるすべての者の上に臨もうとしている。私たちが光のかけらを拾い集め、私たちが神を信頼することを喜ばれる方である神の確かなあわれみを尊ぶとき、すべての約束は成就する。「地が芽を出し、園がその中に蒔かれたものを芽ばえさせるように、主なる神は義と賛美を、すべての国々の前に芽ばえさせる。」イザヤ書61章11節。全地は神の栄光で満たされる。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』第7巻、984頁。
「認識する」とは「記憶を呼び起こす、あるいは知識を回復すること」を意味する。なぜなら、後の雨の歴史を例証する過去の聖なる歴史によって、後の雨のメッセージは認識されるからである。五旬祭におけるペテロの歴史は、ヨエルが示した歴史的枠組みの中に位置づけられていた。ヨエルの枠組みとペテロによる成就は、1844年の真夜中の叫びの歴史に対する二つの証言となる。それら三つの証言(およびその他)は、後の雨の歴史・枠組み・メッセージの例証として「認識」されるべきである。
キリストが昇天し、戻って来られた後に弟子たちに息を吹きかけられたとき、それはペンテコステにおける大いなる注ぎ出しに先立つ「わずかな滴」のようなものだった。始めにも終わりにも、聖霊の注ぎの現れがあった。キリストから弟子たちへのその幾滴かは、ペンテコステの季節のアルファであり、その季節はオメガ、すなわち弟子たちから世界に向けてメッセージが注ぎ出されることをもって終わる。アルファは大麦の初穂のささげ物によって特徴づけられ、小麦の初穂のささげ物で終わる。後の雨の始まりは、9/11にニューヨーク市の巨大な建物群が倒壊したことによって印づけられた。それは日曜法へと至る歴史の始まりを示している。9/11は大麦の初穂のささげ物によって象徴され、日曜法は小麦の初穂のささげ物である。
エフライムの酔いどもは、自分たちの王国が取り上げられ、ふさわしい実を結ぶ民に与えられるという現実に目を覚まされる。ヨエルは、「肉のささげ物」と「飲み物のささげ物」が主の家から断たれ、さらに「新しいぶどう酒」が彼らの口から断たれたことを示して、酔いどもたちの不従順を明らかにしている。「新しいぶどう酒」はヘブライ語では搾りたての汁を指すが、5節で酔いどもが飲む「ぶどう酒」は発酵した汁である。二種類のぶどう酒は教義を象徴しており、ヨエル書の文脈ではその教義は後の雨のメッセージである。エフライムの酔いどもは発酵した汁を飲んできたため、「新しい」搾りたての汁からは「断たれて」いる。二種類のぶどう酒は二つの後の雨のメッセージを表しており、酔いどもは純粋なメッセージから「断たれて」いる。「断たれる」と訳されるヘブライ語の語は、動物を切り裂き、その部分の間を通って歩くという古代の契約慣行に基づいている。「断たれる」とは、神の契約の民として退けられることを意味する。
ヨエル書は、終わりの時における神の民を、1798年にダニエル書の封印が解かれた結果として生じたミラー派から、1989年に同書の封印が解かれた結果として生み出される十四万四千人に至るまで、明らかにしている。初めに、聖霊の注ぎは、エクセターのキャンプ集会から1844年10月22日の失望に至るまでの期間によって表されていた。その歴史はマタイ25章の十人の乙女のたとえを成就し、そのたとえは十四万四千人の歴史において文字どおり繰り返される。
「マタイ25章の十人の乙女のたとえは、アドベンチストの人々の経験も示している。」『大いなる論争』393。
「私はしばしば、五人は賢く、五人は愚かであった十人の乙女のたとえを引き合いに出されます。このたとえは、この時代に対して特別な適用があるため、文字どおりにすでに成就してきており、これからも成就します。また、第三天使のメッセージと同様に、すでに成就しており、時の終わりまで現在の真理であり続けます。」 Review and Herald, 1890年8月19日
不義と欺きと迷妄のうち、死の陰そのものの中に横たわっている世界がある—眠っている、眠っている。彼らを目覚めさせるために魂の産みの苦しみを覚えているのは誰か。どのような声なら彼らに届くのか。私の思いは、合図が与えられるあの未来の時へと運ばれる。「見よ、花婿が来られる。迎えに出なさい。」しかし、自分のともしびに注ぎ足す油を求めるのを遅らせた者たちがいて、手遅れになってから、油が象徴する品性は人から人へ移すことのできないものだと知るだろう。その油とはキリストの義である。それは品性を表しており、品性は譲り渡すことができない。誰も他者のためにそれを確保することはできない。各人が自らのために、罪のあらゆる汚れから清められた品性を得なければならない。バイブル・エコー、1896年5月4日。
『悪の中に横たわっている世界』を『目覚めさせるために魂の苦悩を感じている』のは誰か? ヨエルはその問いに答える:
やがて、主の御名を呼び求める者はだれでも救われる。主が言われたように、シオンの山とエルサレムには救いがあり、また、主が召される残りの者のうちにも救いがある。ヨエル 2:32。
これらについては次の記事で続けます。
復活の日の午後遅く、弟子のうち二人が、エルサレムからおよそ八マイル離れた小さな町エマオへ向かっていた。彼らはキリストの働きにおいて目立った役割を担ってはいなかったが、心から彼を信じる者たちであった。彼らは過越の祭りを守るためにこの都に来ていたが、最近起こった出来事に大いに当惑していた。朝には、キリストの遺体が墓から取り去られたという知らせを聞き、また、天使を見てイエスに会ったという女たちの報告も聞いていた。彼らは今、黙想し祈るために家路についていた。悲しみに沈みながら夕べの道を歩み、裁判と十字架刑の光景を語り合っていた。これほどまでに打ちひしがれたことはかつてなかった。望みも信仰も失い、彼らは十字架の陰を歩んでいた。
彼らが旅路をあまり進まないうちに、一人の見知らぬ人が加わった。だが彼らは深い悲しみと失望にあまりにも心を奪われていたため、彼をつぶさには見なかった。彼らは心にある思いを打ち明けながら、語り続けた。彼らはキリストが与えた教えについて思いめぐらしていたが、どうしても理解できないようであった。彼らが起こった出来事を語り合ううちに、イエスは彼らを慰めたいと心から願われた。イエスは彼らの悲しみをご覧になり、また、「あれほどの辱めをみずから受けられたこの方が、はたしてキリストでありうるのか」という思いを彼らの心にもたらした、相反し困惑させる考えを理解しておられた。彼らの悲しみはこらえきれず、彼らは涙した。イエスは、彼らの心が愛によってご自身と固く結ばれていることをご存じで、彼らの涙をぬぐい、喜びと楽しみで満たしてやりたいと切に望まれた。しかし、まず彼らに決して忘れることのない教訓をお与えにならなければならなかった。
「彼は彼らに言われた。『あなたがたは歩きながら、悲しみつつ、互いにどんなことを語り合っているのですか。』すると、そのうちの一人、名をクレオパという者が答えて言った。『あなたはエルサレムに滞在していながら、この数日の間にそこで起こった出来事を、あなただけご存じないのですか。』彼らは、自分たちの師についての失望を彼に語った。『その方は、神とすべての民の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。』しかし彼らはこう言った。『「祭司長たちや私たちの指導者たち」が、その方を死刑に定めるために引き渡し、十字架につけてしまったのです。』深い失望で胸を痛め、唇を震わせながら、彼らはさらに付け加えた。『私たちは、その方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと信じていました。しかも、これらのことが行われてから、きょうで三日目になります。』」
弟子たちがキリストの言葉を思い出さず、起こった出来事を彼があらかじめ予告していたことに気づかなかったとは、不思議なことである。彼らは、彼が語られたことの後半も前半と同じように確かに成就し、三日目に彼がよみがえるということを理解していなかった。彼らが覚えておくべきだったのは、この部分であった。祭司たちや支配者たちはこれを忘れなかった。「備えの日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちがピラトのもとに集まり、言った。『閣下、あの偽り者がまだ生きていたときに、「三日後にわたしはよみがえる」と言ったのを、私たちは覚えております。』」マタイ 27:62, 63。しかし、弟子たちはこれらの言葉を思い出さなかった。
「すると彼は彼らに言われた、『ああ、愚かな者たちよ。預言者たちが語ったすべてを信じることに心の鈍い者たちよ。キリストはこれらのことに苦しみ、その栄光に入るべきではなかったのか。』弟子たちは、この見知らぬ人は一体何者なのだろう、どうして彼が彼らの魂の奥底にまで入り込み、これほどの切実さと優しさと同情、そして希望に満ちて語ることができるのだろう、と不思議に思った。キリストが裏切られて以来初めて、彼らは希望を感じ始めた。彼らはしばしばその同行者を熱心に見つめ、彼の言葉はまさにキリストが語っただろう言葉そのものだと思った。彼らは驚きに満たされ、喜ばしい期待で胸が高鳴り始めた。」
聖書の歴史の最初にあたるモーセから始めて、キリストは聖書全体にわたってご自身に関する事柄を説き明かされた。もし最初にご自身を彼らにお示しになっていたなら、彼らの心は満ち足り、喜びに満たされて、もはや何も求めなかっただろう。だが、旧約の予表と預言がキリストについて証言していることを彼らが理解する必要があった。彼らの信仰はそれらに基づいて確立されなければならなかった。キリストは彼らを納得させるために奇跡は行わず、まず聖書を解き明かすことをなさった。彼らはその死を、自分たちのすべての望みが打ち砕かれたことだと見ていた。ところが今、彼は預言者たちの書から、まさにそれこそが彼らの信仰にとって最も確かな証拠であることを示された。
これらの弟子たちを教えるにあたり、イエスは、ご自分の使命を証しするものとしての旧約聖書の重要性を示された。今日、多くの自称キリスト者は、旧約聖書はもはや何の役にも立たないと主張して、これを捨てている。しかし、それはキリストの教えではない。イエスはそれを非常に重んじられ、あるときこう言われた。「もし彼らがモーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ死人の中からよみがえる者があっても、彼らは説得されはしない。」ルカ16章31節。
アダムの時代から時の終わりの場面に至るまで、族長や預言者を通して語られるのはキリストの御声である。救い主は、新約聖書においてと同じほど明確に旧約聖書においても啓示されている。過去の預言からの光が、キリストの生涯と新約聖書の教えを、鮮明かつ美しく浮かび上がらせる。キリストの奇跡はその神性の証拠である。しかし、彼が世界の贖い主であることのさらに強い証拠は、旧約聖書の預言を新約聖書の歴史と比較するところに見いだされる。
預言に基づいて、キリストはご自身が人としてどのような方であるべきかを弟子たちに正しく示した。人々の望みに従って王座に就き王権を握るメシアを期待していた彼らの思いは、誤っていた。それでは、いと高きところから、取りうるかぎり最も低い地位へと身を低くされたことを正しく理解する妨げになるからである。キリストは、弟子たちの考えがあらゆる点で純粋で真実であることを望まれた。彼らは、彼に割り当てられた苦しみの杯について、可能な限り理解しなければならなかった。彼らにはまだ理解できないその恐るべき闘いが、世の基が据えられる前に結ばれた契約の成就であることを、キリストは彼らに示した。律法の違反者が罪にとどまるなら死なねばならないのと同様に、キリストも死なねばならなかった。これらすべては起こるべきことであったが、その結末は敗北ではなく、栄光に満ちた永遠の勝利となるのである。イエスは、世界を罪から救うために、なしうるあらゆる努力を払わなければならないと彼らに語った。彼に従う者たちは、強い熱意と粘り強い努力をもって、彼が生きたように生き、彼が働いたように働かなければならない。
こうしてキリストは弟子たちに語り、彼らが聖書を理解できるようにその心を開かれた。弟子たちは疲れていたが、話は途切れなかった。救い主の唇からは、いのちと確信のことばがこぼれ落ちた。しかし、なお彼らの目はさえぎられていた。彼がエルサレムの滅亡を語られると、彼らはその滅びに定められた都を涙ながらに見つめた。だが、自分たちの旅の同行者が誰であるかを、彼らはまだほとんど察していなかった。自分たちの会話の主題その人が傍らを歩いているとは思いもしなかった。というのも、キリストはあたかも別人であるかのようにご自分のことを語られたからである。彼らは、彼はあの大いなる祭りに出席していて、いま家に帰る途中の一人なのだと思っていた。彼は彼らと同じように、でこぼこの石の上を慎重に歩み、ときおり彼らとともに立ちどまってひと息入れた。こうして彼らは山道を進んでいった。その傍らを、やがて神の右に座し、「天においても地においても、いっさいの権威はわたしに与えられている」と言うことのできるお方が歩いておられた。マタイ28:18。
道中、日はすでに沈み、旅人たちが憩いの場所に着く前に、畑で働く者たちは仕事を終えていた。弟子たちが家に入ろうとしたとき、見知らぬ方は、このまま旅を続けるかのように見えた。だが弟子たちはその方に心惹かれ、彼からさらに多くを聞きたいと魂が飢え渇いた。「私たちと一緒にお泊まりください」と彼らは言った。その方は招きを受ける様子はなかったが、彼らはなおも願って、「もう夕方になり、日はすでに傾いています」と促した。キリストはこの懇願に応じ、彼らと共にとどまるために中に入られた。
もし弟子たちが招きをしきりに勧めなかったなら、彼らは自分たちの旅の同伴者が復活の主であることを知ることはなかっただろう。キリストは決して、だれに対してもご自身を無理に押しつけない。彼はご自身を必要とする者たちに目を留めておられる。最もつつましい家にも喜んで入られ、最も低くされた心を励まし慰められる。しかし、人々が天の客を思うことにあまりに無関心で、主に共にとどまってくださるよう願い求めないなら、主はそのまま通り過ぎて行かれる。こうして多くの人は大きな損失をこうむる。主が道すがら彼らと共に歩まれたときの弟子たちと同様に、彼らもキリストを知らない。
パンの質素な夕食はすぐに用意される。食卓の上座に着いた客人の前にそれが置かれる。今、彼は食物を祝福するために手を差し伸べる。弟子たちは驚いて身を引く。彼らの仲間は、彼らの師がいつもしていたのとまったく同じように手を広げる。彼らがもう一度見ると、なんと、彼の手には釘の跡が見える。二人は同時に叫ぶ。主イエスだ!彼は死者の中からよみがえられた!
彼の足もとにひれ伏して彼を礼拝しようと彼らは立ち上がったが、彼はすでに彼らの目の前から姿を消していた。ついこの間まで墓に横たわっていたあの方がおられたその場所を見つめ、互いに言った。「道々、彼が私たちに話してくださったとき、また私たちに聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は内に燃えていたではないか。」
しかし、この大いなる知らせを伝えるべく、彼らは座って語り合っているわけにはいかない。疲れも空腹も消え、食事に手もつけず、喜びに満ちて、彼らはすぐにまた来たのと同じ道をたどって出発し、町の弟子たちにその知らせを伝えようと急ぐ。道のところどころは安全ではないが、つるりとした岩で足を滑らせながらも、険しい場所をよじ登っていく。彼らとともにこの道を歩まれた方の守りのもとにあることを、彼らは見てもおらず、知りもしない。巡礼の杖を手に、恐れをおしてもっと速く行きたいと願いつつ、なおも歩みを進める。道を見失っては、また見つける。ときには走り、ときにはつまずきながらも、道中ずっと見えない同行者がすぐそばにいるまま、彼らは前へ前へと進む。
夜は暗い。しかし、義の太陽が彼らの上に輝いている。彼らの心は喜びに躍る。彼らは新しい世界にいるかのようだ。キリストは生ける救い主である。彼らはもはや彼を死んだ方として嘆き悲しまない。キリストはよみがえられた。彼らはそれを何度も何度も繰り返す。これが、悲しむ人々のもとへ彼らが携えていく知らせである。彼らはエマオへの道の素晴らしい物語を語らなければならない。道すがら誰が彼らに加わったのかを語らなければならない。彼らは、世界にかつて与えられたうちで最も偉大なメッセージを携えている。それは、この世においても永遠においても人類の希望がそれに懸かっている、喜ばしい知らせである。『各時代の希望』795-801.