私たちは、エゼキエル書三十七章の筋道を考察している。そこでは、まず第七のラッパの吹鳴とラオデキアへのメッセージが指し示され、それによって十四万四千の軍勢がもたらされる。ついでエゼキエルは、イスラエルの北王国と南王国の二本の棒が結び合わされることを導入することにより、その筋道を反復し、さらに拡張する。これは、第七のラッパが吹き鳴らされている時期に、神性と人性が結合される過程を示す譬えである。二つの国が一つの国として結ばれると、エゼキエルは彼らの上に王がいることを明らかにし、その後、永遠の契約、すなわち十四万四千と結ばれて成就する契約に言及しつつ、終末の契約の民のただ中に神の聖所がとこしえに在るであろうことを強調する。
私たちはその線に、1844年にヨハネが神殿を測った働きを付け加えた。こうして、2001年9月11日に始まった最終の測りが予表される。その測りについてはゼカリヤも言及しており、神がご自身の御名を置く都として再びエルサレムをお選びになるときに、その測りが行われることを述べている。私たちは、神殿を構成する諸要素と、イスラエルの北王国と南王国の二本の棒とのあいだに類比を設定している。ご自身の神性を十四万四千人の人性と結び合わせるキリストの働きは、北王国と南王国にもたらされた離散の二千五百二十年に関する二つの預言において、二千三百年の預言と相まって、表象されている。
福音の働きにおいてエゼキエルの棒が何を表しているのかを見極めるには、福音についての基本的な理解が必要である。キリストは、四千年にわたり受け継がれてきた弱さを帯びた私たちの堕落した人性を、マリアを通してお受けになった。私たちの模範として、彼は、ご自分の意志を用いてそれを御父の御心に明け渡すことによって、私たちもまた、彼が勝利したように、彼の御心に服させて自分の意志を働かせることによって勝利できることを示された。魂の砦である脳において、私たちの意志は善にも悪にも用いられる。
二学期分の学業を一学期に詰め込もうと望む学生に対しては、この件で思い通りにさせるべきではない。二倍の仕事を引き受けることは、多くの者にとって、精神の酷使と適切な身体運動の怠りを意味する。精神が過剰な知的な食物を把握し消化できると考えるのは道理に合わないし、胃に休む間も与えず消化器官に負担をかけるのと同じように、精神に与える食物を過剰にすることも大きな罪である。脳は人間全体の砦であり、食事、装い、睡眠における誤った習慣は脳に影響を及ぼし、学生が望むもの—良い精神的鍛錬—の達成を妨げる。配慮を欠いて扱われた身体のどの部分も、その損傷を脳に知らせる。若者に健康の保ち方を教えるにあたっては、大いなる忍耐と粘り強さが必要である。彼らはこの事柄について十分に理解を深め、随意的であれ不随意的であれ行為の際に最良の健康がもたらされ、学業の負担に耐えられるよう脳が活性化されるために、すべての筋肉と器官が強められ鍛えられるようにすべきである。キリスト教教育, 124.
永遠の契約の働きは、神の律法を私たちの心と思いに書き記すことであり、私たちの心と思いはどちらも、私たちの「魂の城砦」、すなわち脳にある。
男であれ女であれ、人の心は、純潔と聖さから堕落、腐敗、犯罪へと一瞬にして落ちるものではない。人間を神的なものへと変えるにも、また神のかたちに造られた者を獣的あるいは悪魔的なものへとおとしめるにも、時間がかかる。見つめることによって、私たちは変えられる。造り主のかたちに似せて造られているにもかかわらず、人は自らの心をそのように教育して、かつて忌み嫌っていた罪を快いものと思うようになることができる。見張りと祈りをやめるとき、彼は要塞である心の守りをやめ、罪と犯罪に身を投じる。心は卑しめられ、道徳的・知的な力を奴隷とし、より下劣な情欲に従わせるように教育されている間は、それを腐敗から引き上げることは不可能である。肉の思いに対する絶え間ない戦いを続けなければならない。また、心を上へと引き上げ、純粋で聖い事柄を黙想することに慣れさせる、神の恵みの清めの感化によって助けられなければならない。アドベンチスト・ホーム、330。
「精神」「心」「脳」は「魂の砦」である。砦とは、罪の侵入を許さないように守るべきものである。
父なる神への祈りの中で、キリストは、心と魂に刻まれるべき教訓を世界に与えられた。「これこそ永遠のいのちである。すなわち、彼らが唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることである。」と語られた。ヨハネ17:3。これこそ真の教育である。それは力を与える。神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを体験的に知ることは、人を神のかたちへと変える。それは人に自己を支配する力を与え、より低い本性のあらゆる衝動と情欲を、精神のより高い力の支配下に置く。それはそれを持つ者を神の子、天の相続人とする。それはその人を無限者の御心との交わりへと導き、宇宙の豊かな宝をその人に開く。『キリストの実物教訓』114。
「高次の力」は、「低い性質の衝動と情欲」を制御し、従わせるために用いられるべきである。高次の力は心に宿っており、「無限なる方の御心との交わり」こそが、「人を神のかたちへと変える」のである。十四万四千人が封印される時期には、一方の人々には獣の像が、他方の人々にはキリストの像が形づくられる。その変容を成し遂げるのは、心と心の結びつきである。パウロが言うところの肉の思いを持つ者は、肉、すなわち獣の像を形づくる。キリストの心にあずかった者は、キリストの像を形づくる。私たちは皆、肉の思いをもって生まれてきたが、回心のときにキリストの心を得ることができる――これが契約の約束である。
あなたがたのうちにも、この思いを抱きなさい。それはキリスト・イエスのうちにもあったものです。キリストは、神のかたちであられる方でしたが、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべのかたちを取り、人間と同じようになられました。人としての姿で現れ、自らを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。ピリピ人への手紙 2:5-8
私たちは、キリストにもあったように、キリストの思いを自分のうちに持つべきです。なぜなら、私たちは御かたちに造られたからです。しかし私たちはその思いを持っていません。私たちは肉の思いを持ち、罪のもとに売り渡されています。
こういうわけで、いまやキリスト・イエスにある者で、肉に従ってではなく御霊に従って歩む人々には、罪に定められることはありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです。律法は肉のために弱くて成しえなかったのですが、神はご自分の御子を罪ある肉の似姿で、また罪のために遣わし、肉において罪を罪に定められました。それは、肉に従ってではなく御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の正しい要求が満たされるためです。というのも、肉に従う者は肉に属することに思いを向け、御霊に従う者は御霊に属することに思いを向けるからです。肉の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平和です。肉の思いは神に敵対しており、神の律法に従わず、従うこともできないからです。ですから、肉にある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中ではなく御霊の中にいます。もし誰かがキリストの御霊を持っていないなら、その人はキリストに属する者ではありません。そして、もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、体は罪のゆえに死んでいますが、霊は義のゆえにいのちです。ローマ人への手紙 8:1-10.
霊に属することはいのちであり、肉に属することは死である。肉は低次の性質であり、私たちの感情の源である。肉的な低次の性質は高次の性質によって治められるべきであり、それは聖霊に服従して私たちの意志を行使することによって成し遂げられる。私たちのより高次の肉的な思いは今ここで変えられ得るが、低次の性質が変えられるのは再臨まで待たなければならない。
エゼキエルの二本の棒は、外庭として表されている一本の棒を示しており、その棒は1798年に結末に至った。それは、異教が軍勢を踏みにじった1260年と、教皇制が軍勢を踏みにじった1260年とに、正確に二分されていた。その棒は神の聖所が踏みにじられることを表してはいなかった。というのも、神の聖所は南王国にあったからである。異教と教皇制によって踏みにじられた軍勢は、人間からなる神殿であったが、南王国との関係においてそれは体であり、南王国こそ神が頭を置くことを選ばれた場所であった。北王国は体、南王国は頭であった。
北王国に関する一二六〇年の二区分は、体の神殿における罪への二種の傾向、すなわち遺伝的傾向と培われた傾向を表していた。異教は、体の神殿における罪の遺伝的傾向の象徴であり、異教の宗教を取り入れた教皇制は、罪への培われた傾向を表している。いずれの場合にも、体の神殿は再臨に至るまで変えられることはなかった。ゆえに、北王国の杖は1798年までしか及ばず、ヨハネが神殿を測るよう告げられたとき、その杖は除外されるべきであった。
「conversion」という語は、ある状態や条件から別の状態や条件への転換(変化)を意味する。アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは本来の状態から「転換」された。彼らは神のかたちに、完全な者として創造されており、高次の力が下位の力を支配していたからである。彼らが罪を犯したとき、彼らは高次の力よりも下位の力が優位に立つ存在へと「転換」された。彼らはその状態をすべての子孫に伝えた。
エゼキエルの二本の棒の預言において、主はエルサレムを頭、すなわち王が住む首都として選ばれた。それは上位の権威となるはずであった。二本の棒のたとえでは、北にある上位の王国に対して、南王国は下位の権威であった。二本の棒が結び合わされることで表される転換は、南王国が頭としての地位に復帰することを求めた。南王国は北の王国へと向き直るべきであった。というのも、そのときそれは真の北の王と結び合わされ、真の北の王国の玉座の間と結びつけられたからである。
このため、北王国は1798年までしか至らず、ヨハネは1798年までしか至らない中庭を除外するように告げられた。南王国は第三の天使の到来によって二千三百年の棒に結び合わされることになったが、北王国は、ヨハネがそのとき測った神殿の二つの区画の内部で神性と人性の結合が成し遂げられるとともに終わりを迎えることになった。北王国は、第三の天使が到来したとき、四十六というつながりによって南王国と結ばれていたが、南王国とは違って、1844年へは直接つながっていなかった。
南王国は、四十六年の神殿と、二百二十年によって表される神性と人性の結合の双方と結び付けられていた。1798年の北王国は、四十六年の神殿の基礎を画したが、そこで終わった。というのは、その基礎は、キリストご自身がお取りになった肉を表しており、かつ、その肉は世の基から屠られていたからである。すべての神殿は相互に置換し得る象徴であり、1798年における四十六年の神殿の基礎はキリストの人としての肉を指し示し、1844年におけるその四十六年の結末は、キリストの神性を指し示す。
1798年まで踏みにじられていた軍勢は、神の聖所ではなかった。その期間には神の聖所が踏みにじられているかのように表されていたが、その踏みにじりが行われていたのは、神がご自分の聖所と御名を置くためにエルサレムを選ばれた南王国であった。踏みにじられていたその軍勢は、異邦人を表していた。すなわち、体を表していた。
アダムとエバが罪を犯したとき、人類が罪に踏みにじられる七千年にわたる「七つの時」が始まった。そのとき、世の初めから屠られた子羊は、人類の罪深い裸を覆うために子羊の皮を与えた。1798年に人類が踏みにじられることが終わったとき、聖別された神殿のあらゆる表象の礎であり建て主である子羊が、再び屠られた。そこで北の王国と、そこに象徴されていた人間の神殿は終わった。
1798年は、偽の反キリストが、538年に権威を与えられて始まり、その前の508年からの30年の準備を経て、三年半の預言的な期間にわたってサタン的な証しをしたのちに、殺された年であった。これは、誕生から始まり、洗礼を受けたときに権威を与えられて終わったキリストの三十年の準備の、サタン的な模倣であった。その後、キリストは三年半の文字どおりの期間にわたって証しをなし、ついに「世の初めから屠られた小羊」であるご自身が十字架につけられる時点に至った。そして、神殿が滅ぼされたなら三日でそれを建て直す、というキリストの約束が成就した。
自分の体という神殿を建て直したのは彼自身であった。なぜなら、復活を成し遂げたのは彼の神性の力であり、彼の神性は十字架で死なず、十字架で死んだのは彼の人性であったからである。神が死ぬことは不可能だからである。
「わたしはよみがえりであり、いのちである」(ヨハネ11:25)。「わたしは自分のいのちを捨てます。それを再び受けるためです」(ヨハネ10:17)と言われた方は、ご自身のうちにあるいのちによって、墓から出て来られた。人性は死んだが、神性は死ななかった。キリストはその神性において、死の束縛を打ち破る力を持っておられた。ご自分のうちにいのちを持ち、御心のままに誰をも生かすことができると宣言しておられる。Selected Messages, book 1, 301.
1798年、「北王国」の勢力を宿す人間の神殿は終局に達した。というのも、それは下位の本性の象徴であり、再臨の際の復活に至るまで変えられることがなかったからである。しかしそれは、キリストが変えられうる神殿を建て直したときの「四十六年」の礎をも指し示した。その神殿は「南王国」によって表され、精神の高次の力の象徴であり、罪人が義とされる瞬間に変えられる。
キリストご自身が据えられた土台の上に、使徒たちは神の教会を建て上げた。聖書では、教会の建設を例えるために、神殿の建築という比喩がしばしば用いられている。ゼカリヤは、主の宮を建てる「若枝」としてキリストに言及している。彼は、異邦人がその働きを助けることについて語っている。「遠くにいる者たちが来て、主の宮の建築に携わる」と。さらにイザヤは、「他国人の子らがあなたの城壁を築き上げる」と宣言している。ゼカリヤ書 6:12, 15;イザヤ書 60:10。
この宮の建て上げについて書きながら、ペテロはこう言っている。「あなたがたが彼のもとに来るとき、彼は生ける石であり、人々には確かに退けられたが、神に選ばれ、尊ばれている。あなたがたもまた、生きた石として、霊的な家に築き上げられ、聖なる祭司とされ、イエス・キリストによって神に受け入れられる霊的ないけにえをささげるためである。」 第一ペテロ 2:4,5.
ユダヤ人と異邦人の世界という採石場で、使徒たちは働き、土台に据えるための石を掘り出した。パウロは、エペソの信徒たちへの手紙の中でこう語っている。「こういうわけで、あなたがたはもはや他国人でも寄留者でもなく、むしろ聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に築かれており、キリスト・イエスご自身が隅のかなめ石です。この方にあって、建物全体は適切に組み合わされ、主において聖なる宮へと成長していきます。あなたがたもこの方にあって、御霊によって神の住まいとなるよう共に建て上げられているのです。」エペソ人への手紙 2:19-22。
そして彼はコリントの人々にこう書いた。『私に与えられた神の恵みによって、知恵ある建築者として私は土台を据え、別の者がその上に建てている。だが、各人はどのようにその上に建てるかに注意せよ。すでに据えられている土台、すなわちイエス・キリスト以外に、ほかの土台を据えることは誰にもできない。さて、もし誰かがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらで建てるなら、各人のわざは明らかにされる。その日がそれを明らかにし、火によって示されるからである。そしてその火は、各人のわざがどのようなものかを試すであろう。』第一コリント 3:10-13。
使徒たちは確かな土台、すなわちとこしえの岩の上に築いた。この土台の上に、彼らは世から切り出した石を据えていった。建てる者たちの働きは、妨げなしには進まなかった。彼らの働きは、キリストの敵対者たちの反対によって、きわめて困難なものとなった。彼らは、偽りの土台の上に建てている者たちの偏狭さ、偏見、憎しみに立ち向かわなければならなかった。教会の建設者として働いた多くの者は、ネヘミヤの時代の城壁の建築者にたとえられる。彼らについて、次のように記されている。「城壁を築く者も、荷を負う者も、荷を載せる者も、皆、それぞれ片手で仕事をし、もう一方の手には武器を持っていた」(ネヘミヤ記 4章17節)。『使徒の働き』595、596頁。
次回の記事でこの研究を続けます。
人の堕落は天界全体を悲しみで満たした。神が創造された世界は罪の呪いに蝕まれ、そこに住む者はみな苦しみと死に定められていた。律法を犯した者たちには、逃れる道はないように見えた。天使たちは賛美の歌をやめた。天の宮廷の至るところで、罪がもたらした破滅を嘆く声が満ちた。
神の御子、天の栄光ある統帥者は、堕落した人類を深く憐れまれた。失われた世界の苦難が御前に立ちのぼるにつれて、その御心は無限の憐れみに動かされた。しかし、神の愛は、人が贖われるための計画をすでにお立てになっていた。破られた神の律法は、罪人のいのちを要求した。全宇宙のうちで、その要求を人に代わって満たすことのできる方はただ一人しかいなかった。神の律法は神ご自身と同じほど聖なるものであるゆえ、その違反のための贖いをなすことができるのは、神と等しいお方のみであった。堕落した人類を律法の呪いから贖い出し、再び天と調和させることができたのは、キリストのほかにはなかった。キリストは、罪の咎と恥を御自身に負われるであろう。罪とは、聖なる神にとってあまりにも忌むべきもので、父と御子を引き離さずにはおかないほどのものである。キリストは、堕落した人類を救い出すために、悲惨の極みの深みにまで降りて行かれるであろう。
彼は父の御前で、罪人に代わって執り成した。言葉に尽くせないほどの切なる関心をもって、天の軍勢はその成り行きを待ち望んでいた。堕落した人の子らのための、その神秘的な協議—「平和の計りごと」(ゼカリヤ6:13)—は、長く続いた。救いの計画は、地が創造される前からすでに立てられていた。というのも、キリストは「世の基の置かれた時からほふられた小羊」(黙示録13:8)だからである。にもかかわらず、罪ある人類のために御子を死に渡すことは、宇宙の王にとってさえ、なお葛藤であった。しかし、「神は世をこれほどまでに愛し、独り子を与えられた。御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16。ああ、贖いの神秘よ! 神を愛さなかったこの世に対する神の愛よ! 「知識にまさる」その愛の深みを、いったい誰が知り尽くせるだろうか。限りない永遠の世々にわたって、不滅の者たちは、その測り知れない愛の奥義を理解しようと求めつつ、驚嘆し、崇めるであろう。
「神はキリストにおいてご自身を現し、『世をご自身と和解させておられた』。コリント人への第二の手紙5章19節。人は罪によってあまりにも堕落してしまい、その本性が純潔と善であるお方と、自分自身のうちでは調和することが不可能であった。しかしキリストは、人を律法による罪の宣告から贖ったのち、人間の努力と結びつく神の力を授けることがおできになった。こうして、神への悔い改めとキリストへの信仰によって、堕落したアダムの子らは再び『神の子ら』となることができたのである。ヨハネの第一の手紙3章2節。」族長と預言者、63、64。