「ペテロが告白した真理は、信者の信仰の土台である。それは、キリストご自身が永遠のいのちであると宣言されたものである。」その「真理」は、キリストの二つの側面を明らかにしていた。第一に、キリストは預言的歴史の一要素であるということである。預言的歴史の出来事を表す道標は、キリストを表している。キリストがそれらの出来事と結び付いていることは、預言的な道標の聖性を示し、また、ホワイト姉妹がしばしば道標を守らなければならないと語ったことの論拠を与えている。というのも、それらの道標はイエス・キリストを表しているからである。キリストの時代における試練の主題を表す道標はキリストのバプテスマであり、神的な象徴の降臨によって特徴づけられているという点で、聖なる改革の系列における他の出来事と一致していた。
モーセの改革の流れでは、神性が降って燃える柴に宿り、創造主が被造物と結び合わさることの象徴となった。七十年の終わりの改革の流れでは、ミカエルが降ってキュロスに力を与え、第一の勅令を前進させ、同時にダニエルはキリストの御姿に変えられた。キリストの改革の流れでは、聖霊が鳩のかたちで降り、神の御子に油を注がれた。これは、神性が人性と結び合わさったことの象徴である。ミラー派の歴史においては、1840年8月11日に降りてきた天使は「イエス・キリストご自身にほかならなかった」。その方は、食べるべきとされた小さな巻物を携えて降りて来られ、しかもその方ご自身がその小さな巻物であった。そこで彼は、神性と人性の結合が、天からのパンであるお方の肉と血を食べ飲むことによって成し遂げられるのだと示した。
聖なる歴史は、キリストの臨在によって体現されているがゆえに聖である。将来の出来事を指し示す神の言葉の預言はイエス・キリストそのものである。なぜなら彼は「ことば」だからである。これらの預言が歴史の中で成就するとき、その出来事は彼の言葉の成就を表し、彼の言葉は真理である。預言を示すのも彼の言葉であり、出来事が到来してその預言が成就するのも彼の言葉である。ゆえに初めにも終わりにもイエス・キリストである。彼はアルファでありオメガであるからだ。だから、ペテロがイエスはキリスト、生ける神の御子であると告白したとき、彼はイエス・キリストという道標と、終わりの日に完全に成就する道標とを指し示していたのである。2001年9月11日はキリストの完全な成就であった。
2001年9月11日の預言の成就を退けることは、生ける神の子であるキリストを退けることにほかならない。ペテロが告白したその真理は「信者の信仰の土台」であり、2001年9月11日にキリストは終末の民をエレミヤの「古い道」へと立ち返らせた。それは第一と第三の天使のメッセージの運動の「土台」を表している。ペテロは十四万四千人を象徴しており、彼らは四人の天使が四つの風を押さえている期間に封印される。封印の時は特定の預言的期間であり、2001年9月11日に始まり、間もなく到来する日曜法で終わる。イエスはいつも、物事の終わりをその始まりによって示す。
封印の時期の初めに、洗礼のときに聖霊が下ったように、黙示録18章の天使が降りてきた。そしてその天使は「イエス・キリストにほかならない方」であった。というのも、ミラー運動の歴史において、その栄光によって地を照らすために降りてきた天使は「イエス・キリストにほかならなかった」からである。間もなく到来する日曜法の時に、「イエス・キリストにほかならない方」が再び降り、ご自分のほかの群れをバビロンから呼び出しつつ、黙示録18章の二つのメッセージのうち第二のものを提示する。封印の時期の中頃に、天使が降りてきたが、それは、1844年4月19日、ミラー運動の最初の失望の時に第二の天使が降りてきたのと同様であった。
その第二の天使が到来した時から、1844年10月22日に第三の天使が到来するまでの間、真夜中の叫びのメッセージが到来するに伴い、第二の天使に力を加えるために多くの天使が遣わされた。これらの天使がミラー派の歴史において到来した時代について語る中で、ホワイト夫人は、これらのメッセージを退けた者たちは、ユダヤ人がキリストを十字架につけたのと同様に確実に、キリストを十字架につけたのだと私たちに教えている。
「私は、ユダヤ人がイエスを十字架につけたように、名目上の諸教会がこれらのメッセージを十字架につけてしまったのを見た。そのため、彼らは至聖所に入る道を知らず、そこでのイエスの執り成しから益を受けることができない。」『初期の著作』, 261.
天使たちによって表されるメッセージが拒まれるとき、それはキリストの十字架刑を表している。というのも、キリストご自身がそのメッセージとその歴史的成就を体現しておられるからである。2020年7月18日、「イエス・キリストご自身にほかならないお方」が降臨し、第一の失望と遅延の時期の始まりを画した。通りで殺され、干からびた骨と化した彼の終わりの日の民は、人々をよみがえらせることのできる唯一の御声を聞くことによって、目覚めさせられるはずであった。
まことに、まことに、あなたがたに言う。死者が神の子の声を聞く時が来る。今はすでに来ている。聞く者は生きる。なぜなら、父がご自身のうちにいのちを持っておられるように、子にもご自身のうちにいのちを持つことをお与えになったからである。さらに、人の子であるがゆえに、さばきを行う権威も彼にお与えになった。このことに驚いてはならない。墓の中にいる者がみな、彼の声を聞く時が来るからである。そして、彼らは出て来る。善を行った者はいのちへのよみがえりに、悪を行った者はさばきへのよみがえりに。ヨハネ 5:25-29
2023年7月に、彼の御声が死んで干からびた骨を命へと呼び起こし、その後、アルファでありオメガである方が封印の時の始まりを再現された。というのも、2023年7月は封印の時の終わりの期間を示していたからである。そのとき彼の民は、エレミヤの古い道へ、すなわちミラー派の歴史の基礎へと、再び呼び戻された。ミラー派の始まりと終わりにおける基礎的メッセージは、ミラー派の歴史の最初と最後のメッセージであり、それはレビ記26章の「七つの時」であった。
2023年7月、神の終末の民は再び小さな書を取り、それを食べるように命じられた。彼らがその小さな書を食べると、黙示録9章にある第三のわざわい(東からの知らせ)のメッセージと、ダニエル書11章(北からの知らせ)のメッセージを受け入れるかどうかを試される。この試みは彼らをダニエル書11章13〜15節へと導くが、そこはパニウムの戦い、すなわちカイサリア・ピリピであり、また真夜中の叫びのメッセージであって、そこで御声を聞いた二つの階級が明らかにされる。一方は「善を行った者は命の復活へ」、他方は「悪を行った者はさばきの復活へ」となる。
十四万四千人の封印の時には三つの声があり、それらはすべて「まさしくイエス・キリストご自身」の声である。黙示録十八章の第一の声は、ニューヨーク市の巨大な建物群が神のひと触れによって倒されたときに響いた。第二の声は、大天使ミカエルの声であり、彼は死者を墓から呼び出す。第三の声は、黙示録十一章の「大地震」の時に、彼のほかの群れをバビロンから呼び出す、黙示録十八章の第二の声である。カイサリア・ピリピにおけるペテロの信仰告白の完全な成就は、キリストが終わりの時の民を「終わりの時に関するダニエル書の預言のその部分」へと導くときになされる。
ダニエル書11章13〜15節におけるパニウムは、真夜中の叫びのメッセージを指し示す、封印されていたダニエルの預言の「一部分」である。パニウムは1844年8月のエクセターのキャンプ集会であり、ドナルド・トランプの2期目に成就する歴史であり、また十四万四千人の額に神の印を押す預言的メッセージでもある。私たちが今学んでいるこれらの節は、きわめて聖なる地である。
ペテロが告白した真理は、信者の信仰の土台である。それこそ、キリストご自身が「永遠のいのち」と宣言されたものである。しかし、この知識を持っていることは、自らを誇る根拠にはならなかった。ペテロにそれが啓示されたのは、彼自身の知恵や善によるのではなかった。人間は、自分自身の力だけでは、決して神なるものの知識に到達することはできない。「それは天にまで高く、あなたに何ができようか。よみにまで深く、あなたに何が知りえようか。」ヨブ記 11:8。私たちに「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に入ったこともない」神の深い事柄を明らかにしうるのは、ただ子としてくださる御霊だけである。「神はそれらを御霊によって私たちに啓示された。というのは、御霊は一切のこと、そう、神の深みまでも探られるからである。」第一コリント 2:9,10。「主の奥義は主を恐れる者と共にある。」そして、ペテロがキリストの栄光を見抜いたという事実は、彼が「神によって教えられていた」ことの証拠であった。詩篇 25:14;ヨハネによる福音書 6:45。ああ、まことに、「ヨナの子シモン、あなたは幸いだ。というのも、それをあなたに明らかにしたのは血肉ではないからだ。」
イエスは続けて言われた。「またあなたに言う。あなたはペテロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。よみの門もこれに打ち勝つことはない。」ペテロという語は石、すなわち転がる石を意味する。ペテロは、教会が据えられた岩ではなかった。彼がののしり、誓って主を否んだとき、よみの門は彼に打ち勝った。教会は、よみの門が打ち勝つことのできないお方の上に建てられた。
カイサリア・フィリピでキリストが弟子たちに提示していたメッセージは、当時も今も「真夜中の叫び」のメッセージであり、それは、その神殿が「地獄の門」と呼ばれたギリシャの神パンと、地の獣の二つの背教の角との間の霊的な戦いという文脈に置かれている。マカバイ人は神の背教した民であり、ギリシャ人の宗教と戦っていたがゆえに、自分たちこそ神の教会の擁護者だと公言していた。彼らは自らを宗教的指導者であり同時に政治的指導者でもあると自認した。彼らは、アメリカ合衆国政府と共に獣の像を形作りつつあり、グローバリストの、ウォーク主義と母なる地球を奉じる宗教と戦っている、あの堕落した諸教会の背教したプロテスタンティズムを表している。背教の角は、グローバリズムの宗教的および政治的要素との闘いにおいて優勢となり、同時に、間もなく来る日曜法の「大地震」において旗印として掲げられるに先立ち、愚かな乙女の最後の残滓が取り除かれることによって、真のプロテスタントの角は清められている。
ダニエル書の預言のうち終わりの時に関わる部分、すなわちイエス・キリストの啓示であり、真夜中の叫びのメッセージでもあるその部分は、ユダ族の獅子によって、カイサリア・ピリポ(すなわちパニウム)において封印が解かれる。それは、底知れぬ淵からの無神論的な獣らと、2015年にその獣を煽動し始めた共和主義の角との間の戦い、そして今や強大な軍勢としてよみがえりつつある真のプロテスタントの角に対する戦いのただ中で、封印が解かれる。
ペテロが告白した真理は、2001年9月11日の道標を表しており、また、キリストが生ける神の御子であるということも表している。イエスが神の子であることによって示される真理は、ペテロの時代にイエスがメシアであるか否かがそうであったのとまったく同様に、信仰を試す真理である。イエスが神の子であるという宣言は、御子がどのようなお方であるかについてこれまで明らかにされてきたすべてを表している。それは、彼が神の御子であったというだけでなく、人の子でもあったということをも表している。それは、神性が人性において受肉するという真理であり、まさに十四万四千人の封印の時に成し遂げられる働きである。「受肉」の真理は、初めに「安息日」の真理によって型示されていた、終わりの時の真理である。
1844年10月22日は、第三の天使の到来を告げる日となった。天使が到来すると、真理の封印が解かれる時代に即した特別な真理がユダ族の獅子によって開かれ、その真理が開かれる時代の世代はその真理によって試される。1844年10月22日には、1798年から1844年までの46年間にお建てになった宮に突然来られたキリストの働きに関する真理が明らかにされた。キリストの裁きの働き、神の律法、大祭司としての役割、獣の刻印の問題、そして十四万四千人の封印が、いずれも開かれた。ホワイト姉妹には、これらの真理のうち、アルファでありオメガである方が特別な光のもとに指し示された一つの真理があることが示された。
「十戒のまさに中心に第四の戒めがあり、その周囲を柔らかな光の輪が取り巻いているのを見て、私は驚嘆した。天使は言った。『それは十戒のうちで唯一、天と地とその中にあるすべてのものを創造された生ける神を示すものである。地の基が据えられたとき、安息日の基もまた据えられた。』」『Testimonies』第1巻、75頁。
十四万四千人の封印の時は到来していたが、それは1863年の反逆によって遅らされることになった。2001年9月11日、黙示録第18章の力ある御使いとして表されているキリストが、その御手に神の終末の民が食べるべき隠された書物を携えて降りて来られ、封印の働きが始まった。アルファでありオメガである方は常に初めをもって終わりを示されるので、終わりの時代には特別な光のもとに置かれたもう一つの真理があり、それはキリストが最初に十四万四千人に封印を施そうとされたときに強調された安息日の真理と直接結びついていた。
ダニエルがその受ける分に立つ時が来た。彼に与えられた光が、かつてないほどに世界へと広まる時が来た。主が多くのことをしてくださった人々が光のうちを歩むなら、この地球の歴史の終わりに近づくにつれて、キリストと彼に関する預言についての彼らの知識は大いに増し加えられるだろう。
神と交わる者は、義の太陽の光の中を歩む。彼らは、神の前でその歩みを汚すことによって、贖い主に恥をかかせることはしない。天の光が彼らの上に輝く。彼らはキリストと一つであるがゆえに、神の目には無限の価値がある。彼らにとって神の言葉は比類のない美しさと麗しさを帯びている。その重要性を悟る。真理が彼らに開かれる。受肉の教理は柔らかな光彩を帯びる。彼らは、聖書があらゆる奥義を開き、すべての難題を解く鍵であることを悟る。光を受け入れず、光のうちを歩むことをよしとしなかった者たちは、敬虔の奥義を理解することができない。しかし、十字架を負ってイエスに従うことをためらわなかった者たちは、神の光のうちに光を見るであろう。『Manuscript Releases』第21号、406、407。
受肉の教義とは、神性と人性が結合した存在は罪を犯さないという真理であり、終わりの時代にその経験に到達した人々のしるしは安息日である。
また、わたしは彼らにわたしの安息日を与え、それがわたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るためであった。エゼキエル書 20:12
十四万四千人は永遠にわたって封印される。そして、その封印の過程は、その終わり、すなわち日曜法の直前に、印が押される短い期間があることを示している。その短い期間に、神性と人性が永久に結合する。
兄弟たちよ、あなたがたは備えという大いなる業において何をしているのですか。世に結びついている者は世俗の型に染まり、獣の刻印を受ける備えをしています。自己を信用せず、神の前にへりくだり、真理に従うことによって魂を清めている者たちは、天の型を受け、額に神の印を受ける備えをしています。布告が発せられ、刻印が押されるとき、彼らの品性は永遠にわたって純潔で汚れのないままに保たれる。
今こそ備える時である。神の印が、汚れた男や女の額に押されることは決してない。野心に駆られ、この世を愛する男や女の額に押されることも決してない。偽りの舌や欺きの心を持つ男や女の額に押されることも決してない。印を受ける者は皆、神の前に一点の汚れもない、天にふさわしい者でなければならない。前へ進みなさい、兄弟姉妹たちよ。私は今、これらの点については簡潔にしか記すことができず、ただ備えの必要にあなたがたの注意を喚起するにとどめるにすぎない。現在のこの時の恐るべき厳粛さを理解できるよう、自分自身で聖書を調べなさい。『証言』第5巻、216頁。
前のくだりは、印が日曜法の時に押されることを示唆しているかもしれないが、実際はそうではない。ホワイト姉妹は、日曜法が重大な危機であることを明確に述べている。また、品性は危機において現れるが、危機の中で形成されることは決してないとも明確に教えている。印が日曜法の時に押されるのは、その時それが目に見えるものになるという意味においてである。というのも、その時に印を持つ者たちは旗印として高く掲げられるからである。印は、猶予期間が閉じる直前の短い期間に押されるのであり、安息日を守る者たちにとっては、猶予期間は日曜法の時に閉じる。封印は2001年9月11日に始まったが、その時だれも神の印を受けなかった。1844年10月22日以後の期間に示されているように、まず試練の過程が設けられていたからである。
あらゆる改革運動において、終わりの時に封印が解かれたメッセージに力を与えるために神的な象徴が下ると、試練が始まる。ミカエルが下って第一の勅令を推し進めるようキュロスに力を与えたとき、ユダヤ人は、それまで七十年間住み続けてきた地を離れて、荒れ果てた都に帰り、それを再建するかどうかで試された。キリストの洗礼の際に聖霊が下ったとき、ユダヤ人はメシアについて試された。1840年8月11日に黙示録10章の強い御使いが下ったとき、その世代は、小さな巻物を食べるかどうか、そしてその巻物が象徴するすべてを受け入れるかどうかで試された。
1840年8月11日に始まった試験の過程は、礼拝者を二つの階級に分け、小羊に従って至聖所に入った階級は、十四万四千人のうちに加えられる候補者であった。その試験過程に失敗したその世代に対する最終の試みは、レビ記26章の「七つの時」に関する光が増し加わって臨んだことによって始まった。1856年から1863年まで、ラオデキヤのメッセージは、1844年10月22日に第三の天使の到来によって始まった期間における最後の時期を画した。その期間は、ダニエル書11章13節から15節によって表されている。
次回の記事でこの研究を続けます。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。そのことばは初めに神とともにあった。万物は彼によって造られ、彼によらずに造られたものは一つもなかった。彼のうちに命があった。そしてその命は人の光であった。光は闇の中に輝いているが、闇はそれを理解しなかった。」 「そして、そのことばは肉となり、私たちの間に住まわれた。(私たちはその栄光を見た。父の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた。)」 (ヨハネの福音書 1:1–5、14)
この章は、キリストの御業の性質と重要性を描き出している。主題を深く理解している者として、ヨハネは一切の権威をキリストに帰し、その偉大さと威厳を語る。彼は、太陽の光のように、尊い真理の神的な光を放つ。彼は、神と人類との間の唯一の仲保者としてキリストを示す。
キリストが人間の肉体において受肉されたという教義は一つの奥義であり、「時代と世代にわたって隠されていた奥義」である(コロサイ1:26)。それは敬虔の偉大で深遠な奥義である。「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。キリストは、ご自分の天の本性に比べれば劣る人間の本性をお取りになった。神の驚くべきへりくだりを、これほどまでに示すものはほかにない。神は「実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。ヨハネはこの驚くべき主題を、だれもが示された考えを理解し、光を受けることができるほどに、平明に示している。
キリストは人性をお取りになったかのように見せかけたのではない。まことにそれをお取りになった。彼は現実に人性をお持ちであった。「子たちが血と肉にあずかっているように、彼自身もまた同じものにあずかられた」(ヘブル人への手紙 2:14)。彼はマリアの子であり、人としての血筋によればダビデの子孫であった。彼は人であると宣言されている。すなわち、人なるキリスト・イエスである。「この人は」とパウロは書いている、「家を建てた者は家そのものよりも大いなる誉れを受けるのだから、モーセよりも多くの栄光に値する」(ヘブル人への手紙 3:3)。
しかし、神の御言葉は、キリストが地上におられたときの人性について語ると同時に、彼の先在についても明確に語っている。『ことば』は神的存在として、すなわち永遠の神の御子として、父なる神と結び合い、一つであった。永遠の昔から、彼は契約の仲保者であり、彼を受け入れるなら、地上のすべての国々の民、ユダヤ人も異邦人も、彼にあって祝福を受けることになっていた。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ 1:1)。人間も天使も創造される以前から、ことばは神とともにあり、神であった。
世界は彼によって造られ、「彼によらずに造られたものは、造られたものの中に一つもなかった」(ヨハネ1:3)。もしキリストが万物を造られたのであれば、彼は万物に先立って存在しておられた。このことに関して語られている言葉は、誰も疑う余地がないほどに決定的である。キリストは本質において、また最高の意味で神であられた。彼は永遠の昔から神と共におられ、万物の上にある神、永遠にほむべき方である。
神の御子なる主イエス・キリストは、永遠の昔から存在しておられ、御父と一つでありながら、別個の位格であられた。彼は天の比類なき栄光であった。彼は天上の知性ある者たちの統帥者であり、天使たちの崇敬と礼拝は、彼の当然の権利として彼に捧げられた。これは神からの強奪ではなかった。「『主はその道の初めに私を得られた』と、彼は宣言する。『その昔のわざに先立って。私は永遠から、初めから、地のあるより先に据えられた。深淵がまだなく、豊かに水をたたえる泉もなかったとき、私は生み出された。山々が据えられる前に、丘に先立って、私は生み出された。彼がまだ地も、野も、世界の塵の最も高い部分も造られないうちに。彼が天を備えられたとき、私はそこにいた。彼が深淵の面に円を定められたとき』(箴言 8:22-27)。」
世界の基が据えられる前からキリストが御父と一つであったという真理のうちには、光と栄光がある。これは暗い所に輝く光であり、その場所を神聖な原初の栄光で燦然と輝かせる。それ自体は無限に神秘的なこの真理は、他の神秘に満ち、他には説明しえない諸真理を説明する一方で、光のうちに包まれ、近づきがたく、不可解である。『Selected Messages』第1巻、246–248頁。