試練の過程に失敗したミラー派の世代に対する最後の試練は、レビ記二十六章の「七つの時」についての光がさらに増し加わった1856年に始まった。1856年から1863年にかけて、ラオデキア人へのメッセージは、1844年10月22日に第三の天使が到来したことによって始まった期間の最後の時期を画した。その期間は、ダニエル書十一章十三節から十五節によって表されている。

その期間は、あの聖句だけでなく、それらの聖句を成就した歴史、さらにパニウム(すなわちカイサリア・ピリピ)という地理的な証しによっても示されている。カイサリア・ピリピは、十字架の直前にキリストが意図的に訪れた場所であり、その十字架は16節で表されている日曜法を象徴している。1844年10月22日、ユダ族の獅子は安息日の教理を特別な光のもとで明らかにした。その試練の過程の終わりに、彼は「七つの時」に関する知識の増加をもたらし、レビ記26章の「七つの時」は安息日の教理である。すなわち、土地を休ませるという安息日の戒めは、人が休むという安息日の戒めと直接対応している。2520年の時の預言と2300年の時の預言は、いずれも1844年10月22日に終わった。

試みの過程の最後の期間、すなわち1856年から1863年にかけての時期は、安息日についての、いっそう大いなる啓示であった。この安息日は、封印と試みの過程の初めにおいて、特別な光のもとに置かれていた。ダニエル書十一章十三節から十五節の成就によって表される歴史は、神の印が十四万四千人の上に永遠のために押される試みの期間を表している。その歴史において、エゼキエルの二本の棒は一つに結び合わされる。二本の棒の結合は、神性と人性との結合を表しており、その歴史において特別な光をもって輝く教理は、受肉の教理である。

このゆえに、ペテロがカイサリア・ピリピにおいてキリストを神の御子であると認めたとき、彼は、キリストが神の御子として、神の御子であるという神的性質と、御自ら人の肉を取られ、それによって人の子となられたという二重の性質とを有しておられることを認めていたのである。

「弟子たちがキリストについて証しする預言を探り求めたとき、彼らは神性との交わりへと導かれ、地上で始められた働きを完成するために天に昇られたお方について学んだ。彼らは、そのお方のうちには、神の働きによる助けなしにはいかなる人間も理解し得ない知識が宿っているという事実を認めた。彼らには、王たち、預言者たち、そして義人たちが前もって告げていたそのお方の助けが必要であった。彼らは驚嘆しつつ、そのご品性とみわざとを描き出す預言的記述を繰り返し読み返した。キリストについて証しする大いなる真理を、彼らは何と薄暗くしか理解していなかったことであろう。彼らはそれを受け入れるのに何と遅かったことであろう。人の中のひとりの人として歩まれたその屈辱のうちにあるキリストを見ながら、彼らはその受肉の奥義、そのご性質の二重の性格を理解していなかった。彼らの目はさえぎられていて、人性のうちにある神性を十分に認めなかったのである。しかし、聖霊によって彼らが照らされた後、彼らは何と再びそのお方にお会いしたいと切望し、そのみ足もとに身を置きたいと願ったことであろう。」『各時代の希望』507頁。

1844年10月22日から1863年に至るまでの期間は、十四万四千人の印する時を表している。その期間は、印する時の間に解かれる多くの真理の中でも、安息日が特別の真理として強調されることによって始まった。その期間はまた、第七のラッパが鳴り始める時でもあり、それは神の奥義が成就されるべき時を示している。

しかし、第七の御使いの声が響き、彼がラッパを吹き鳴らし始めるとき、神の奥義は成就する。神がそのしもべである預言者たちに告げられたとおりである。黙示録 10:7

第七の天使はまた第三の災いでもある。というのは、封印は、イスラムの戦いが活動している歴史の中で行われるからである。もしミラー派アドベンティズムが1844年10月22日に続く期間に忠実であったなら、1840年8月11日に抑えられていたイスラムは解き放たれていたであろう。

もしアドベンチストたちが、1844年の大失望の後も信仰を堅く保ち、神の開かれる摂理に一致して前進し、第三天使のメッセージを受け入れ、聖霊の力によってそれを世に宣べ伝えていたなら、彼らは神の救いを目の当たりにし、主は彼らの努力とともに力強く働かれ、働きは完成し、キリストはすでに、御自分の民をその報いにあずからせるためにお迎えに来られていたであろう。しかし、その失望に続く疑いと不確かさの時期に、多くの再臨信徒がその信仰を捨ててしまった……。このようにして働きは妨げられ、世界は暗闇の中に残された。もしアドベンチストの全体が神の戒めとイエスの信仰に団結していたなら、私たちの歴史はどれほど大きく違っていたことであろうか! Evangelism, 695.

1844年10月22日、第七のラッパが鳴り始め、ヨベルのラッパもまた鳴り始めた。

あなたは自分のために安息年を七度、すなわち七年を七度、数えよ。安息年の七度の期間は、あなたにとって四十九年となる。第七の月の十日、贖罪の日に、ヨベルの角笛を鳴り響かせよ。あなたがたの地の全土に角笛を鳴り渡らせよ。あなたがたは五十年目を聖別し、その地に住むすべての者に向けて、全土に解放を布告せよ。それはあなたがたにとってヨベルの年である。あなたがたは、おのおの自分の所有地に帰り、おのおの自分の家族のもとに帰れ。レビ記 25:8-10。

十四万四千人の印する時が始まるとき、イスラムによって成し遂げられた戦いが到来したことを示すラッパがあり、また、罪の奴隷であった者たちに自由を告げ知らせるラッパがある。一方のラッパは外的歴史を示し、他方は終末の契約の民の内的経験を表している。彼らの奴隷状態は、彼らの人性が永遠にわたって神の神性と結合するときに取り除かれる。線の上に線を重ねて見るならば、これら二つのラッパは一つのラッパである。なぜなら、ヨベルのラッパは贖罪の日にのみ吹き鳴らされ、そして贖罪の日は第三の禍の第七のラッパが鳴り響くときに始まるからである。ミラー派運動において両方のラッパを表していた教理は、安息日の光であった。この終わりの日々において両方のラッパを表している光は、受肉の教理である。線の上に線を重ねて見るならば、安息日と受肉の教理は同一の教理である。

ペテロの告白は、メシアを、また神の子を明らかにした。メシアは神の子である。メシアは、安息日によって象徴される創造主である。

「パウロは、キリストが地上におられた間、そのお姿を見たことがなかった。彼とその御業のことは確かに耳にしてはいたが、約束されたメシア、万物の創造主、あらゆる祝福の与え主が、ただの人間として地上に現れるとは信じることができなかった。」『パウロの生涯の素描』256ページ。

安息日は創造主を示しており、その創造主こそ、ペテロが告白したキリストであった。ペテロが告白した神の御子こそ、人の肉と結び合わされて人の子となられたお方である。神の御子という表現は受肉を表している。

キリストは、男女に打ち勝つ力をもたらされた。彼は人の姿をとってこの世に来られ、人々の間でひとりの人として生きられた。彼は、人間の本性に伴うものを身に負い、試され、試みを受けられた。その人性において、彼は神の性質にあずかっておられた。受肉において、彼は新たな意味で「神の子」という称号を得られた。御使いはマリヤに言った、「いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、あなたから生まれる聖なる者は神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)。人の子でありつつも、彼は新たな意味で神の子となられた。このようにして、彼はわたしたちの世界に立たれた—神の子でありながら、生まれによって人類に結び合わされていたのである。『セレクテッド・メッセージ』第1巻、226頁。

カイサリア・フィリピにおいて、ペテロの二つの告白は、イエスがキリスト、神の子であること、さらに1844年に明らかにされた安息日の教理と、終わりの時に認識される受肉の教理を理解する十四万四千人を表していた。二重の真理の光は、1844年10月22日から1863年に至る封印の歴史と、黙示録18章の二つの声の歴史が証言しているように、封印の期間の始めと終わりに開示される。

封印の過程におけるミラー派の線においても、また黙示録十八章における封印の預言的な線においても、その期間のまさに終わりに一つの試験があり、そこで一つの階級は、1856年から1863年にかけてそうであったように、愚かな処女として明らかにされ、また一つの階級は、2023年7月から間もなく到来する日曜法に至るまで、賢い処女として明らかにされる。その最後の試験の期間は、その期間の初めを反復する。2001年9月11日に降った同じ御使いが、2023年にはミカエルとして到来し、死者を命へと呼び起こした。ある者たちは永遠の命へ、ある者たちは永遠の死へと呼び起こされたのである。彼が到来したとき、彼は御自分の民を土台へと立ち返らせた。ある者たちは古い道を歩むことを拒み、ある者たちは古い道を歩む。ある者たちはラッパの音に聞き従い、ある者たちは聞くことを拒む。

主はこう言われる。道の分かれ道に立ち、見渡し、昔からの道、どこに良い道があるかを尋ね、その中を歩め。そうすれば、あなたがたは魂の安らぎを見いだす。しかし彼らは、「私たちはそこを歩まない」と言った。また、私はあなたがたの上に見張り人を立て、「ラッパの音に耳を傾けよ」と言った。しかし彼らは、「私たちは聞かない」と言った。エレミヤ書 6:16、17。

見張り人たちが吹き鳴らすラッパによって表されるメッセージは、二重のものである。それは、イスラムの第七のラッパであり、また解放のヨベルのラッパでもある。それは、受肉の奥義によって成し遂げられる神性と人性との結合のメッセージであり、そしてそれは、神の印、すなわち安息日に備えられた品性を生み出す。2001年から二十二年後の2023年7月に始まった、その印する働きの最終期間に伴うメッセージ、働き、そして諸事情は、ダニエル書第11章13節から15節、およびマタイによる福音書第16章におけるキリストのカイサリア・ピリピ訪問によって表されている。

十人の乙女のたとえでは、待っている間に乙女たちは皆眠ってしまった。イエスは弟子たちに「ラザロは眠っている」と言われた。

これらのことを言われたのち、さらに彼らに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っている。しかし、わたしは彼を眠りから起こしに行く。」すると弟子たちは言った。「主よ、彼が眠っているなら、助かるでしょう。」しかしイエスはラザロの死のことを言っておられたのである。だが、彼らは眠って休むことを言われたのだと思った。そこでイエスは彼らに、はっきり言われた。「ラザロは死んだ。」ヨハネ 11:10-14.

二十一日間の終わりに、ダニエルは幻を見、深い眠りの中にあった。

そして、私、ダニエルだけがその幻を見た。私と共にいた者たちはその幻を見なかったが、彼らには大きな恐れが襲いかかり、身を隠そうとして逃げ去った。 こうして私はひとり取り残され、この大いなる幻を見たが、私のうちには力がまったく残らなかった。というのは、私の血色は変わって衰え果て、力を保つことができなかったからである。 それでも私は彼の言葉の声を聞いた。彼の言葉の声を聞いたとき、私はうつ伏せになって深い眠りに落ち、顔は地に向いていた。 ダニエル書10:7-9。

ヨハネの黙示録11章の二人の証人は、三日半のあいだ通りで死んだままであり、エゼキエルの死んだ骨は谷にあった。2020年7月18日、霊的な死と眠りの遅延の時期が、第三の天使の運動の乙女たちに臨んだ。三年後、神の終末の民を神の旗印、また力ある軍勢として目覚めさせ備える過程が始まった。2020年7月18日に降りてきた天使は、天使が降りるときにはいつもそうするように、一つの真理の封印を解いた。

彼が解き明かした真理は、待機の時と最初の失望の経験であった。当時、神の終末の民は散らされており、やがて歴史の中で彼らを目覚めさせる過程が到来したときには、自分たちが散らされ、待機の時にあることを認識し、認めることを求められることになっていた。そのとき、待機の時のメッセージを強めるために、多くの天使、すなわち多くのメッセージが遣わされた。

第二の天使のメッセージが終わりに近づいたころ、天からの大いなる光が神の民の上に輝くのを見た。その光の光線は太陽のように明るく見えた。そして、「見よ、花婿が来られる。出て彼を迎えよ!」と叫ぶ天使たちの声を聞いた。

これは第二の天使のメッセージに力を与えることとなる真夜中の叫びであった。落胆していた聖徒たちを奮い立たせ、彼らの前にある大いなる働きに備えさせるために、天から天使たちが遣わされた。最も才能ある人々が最初にこのメッセージを受けたのではなかった。天使たちは謙遜で献身的な者たちのもとに遣わされ、彼らを駆り立てて、「見よ、花婿が来られる。迎えに出よ!」と叫ばせた。その叫びを託された者たちは急ぎ、聖霊の力によってそのメッセージを響かせ、落胆していた兄弟たちを奮い立たせた。この働きは人の知恵や学識に支えられていたのではなく、神の力に拠っていた。そして、その叫びを聞いた神の聖徒たちは、それに抗することができなかった。最も霊的な者たちがまずこのメッセージを受け、かつてその働きを先導していた者たちは、最後になってこれを受け入れ、「見よ、花婿が来られる。迎えに出よ!」という叫びをいっそう高める助けとなった。

国中の至る所で、第二の天使のメッセージに光が与えられ、その叫びは何千人もの心を溶かした。それは町から町へ、村から村へと広がり、主を待ち望む神の民がすっかり奮い立たされるに至った。多くの教会ではそのメッセージを語ることが許されず、生きた証しを持つ大勢の者たちはこれらの堕落した教会を離れた。夜半の叫びによって力強い御業が成し遂げられた。そのメッセージは心を探られるようなもので、信者たちを自ら生きた経験を求めるよう導いた。彼らは互いに頼ることはできないと知っていた。『初期の著作』238頁。

たとえの中における真夜中の叫びのメッセージの到来は、二つの組の処女たちが、自らに油があるかどうかを明らかにする時を示している。賢い者たちには油があり、愚かな者たちにはそれがない。このたとえは、ミラー派の歴史におけるサミュエル・スノーの働きによって成就され、その働きにおいて、スノーが提示したメッセージは、当時のミラー派出版物に掲載された彼の記事に示されているように展開された。そして彼が、1844年8月12日から17日まで行われたエクセターのキャンプ集会に到着した時、最終的にその集会にいた者たちが集会を去ってそのメッセージを宣べ伝えるに至った一つの期間もまた表されている。

真夜中の叫びのメッセージが完全に確立される「時点」があり、その時には、たとえに基づけば、乙女たちの恩恵期間が閉じられる。その「時点」に先立って、メッセージが展開されつつある「期間」がある。2023年7月以来、真夜中の叫びのメッセージは展開されてきており、ミラー派の成就とは異なり、「恩恵期間の終わり」に先立って、そのメッセージは世界中に伝えられてきた。エクセター集会の終わりに恩恵期間が閉じられたとき、そのメッセージは「国土の至る所」へと広がり、「第二の天使のメッセージに光が与えられ、その叫びは何千人もの心を溶かした。町から町へ、村から村へと広がり、待ち望む神の民が完全に奮い立たされるまで続いた。」

現在、2023年7月に公開が始まったこのメッセージは世界の120か国に及んでおり、「真夜中の叫び」のメッセージの展開を示す記事は60以上の言語で利用でき、記事は読むことも聴くこともできます。

イエス・キリストの啓示。これは、まもなく起こるべきことをそのしもべたちに示すために、神が彼にお与えになったものである。神は御使いを遣わし、これをそのしもべヨハネに示された。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、また自分が見たすべての事柄について証言した。この預言のことばを朗読する者、またこれを聞き、その中に書かれていることを守る者たちは幸いである。時が近いからである。 ヨハネの黙示録 1:1-3

記事によって表現されたこのメッセージの光は、二人によっておよそ六か月で実現された。

—において助けることのできる者たちが、自らの義務を自覚して奮い立たされないなら、第三の天使の大声の叫びが聞こえるとき、彼らは神の働きを認めないだろう。地を照らす光が出て行くとき、主を助けるために進み出るのではなく、彼らは自分たちの狭い考えに合わせるために、その働きを縛り付けようとするだろう。言っておくが、主はこの最後の働きにおいて、通常の秩序から大きく外れたしかたで、そしていかなる人間の計画にも反するやり方で、御業をなさる。私たちの中には、いつも神の働きを支配したいと望み、世界に与えるべきメッセージにおいて第三の天使に加わる天使の指揮のもとで働きが前進するときでさえ、どのような動きがなされるべきかをさえ指図しようとする者たちがいるだろう。神は、ご自身がみずから手綱を取っておられることが見て取れるような方法と手段をお用いになる。働き人たちは、義の御業をもたらし、それを完成させるために神が用いられる単純な手段に驚かされるだろう。『牧師たちへの証言』300.

ユダ族の獅子は今や、ご自身の終末の民をダニエル書11章13~15節へと導き、その中に描かれた紀元前200年から紀元前63年の歴史を開き、さらにマタイの福音書16章と、キリストがカイサリア・ピリピを訪れた際の歴史も開いておられる。これらの予言とその成就の歴史はいずれも、終わりの時まで封じられていたダニエル書の一部分と一致している。ダニエル書と黙示録は一つの書であるゆえ、終わりの時、恩恵期間が閉じられる直前に、黙示録の封印が解かれ、その開示には終末に関わるダニエル書の部分が含まれている。エクセターのキャンプ集会の締めくくりの時が近づいている。

そして彼は私に言った。「この書の預言の言葉を封印してはならない。時が近いからである。不義を行う者はなお不義を行わせ、汚れた者はなお汚れたままでおらせ、義なる者はなお義を行わせ、聖なる者はなお聖くあらせよ。」ヨハネの黙示録 22:10、11

次回の記事でこの研究を続けます。

見よ、その日が来る、と主なる神は言われる。わたしはこの地に飢饉を送る。それはパンの飢饉ではなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことの飢饉である。彼らは海から海へと、北から東に至るまで、主の言葉を求めてあちらこちらとさまようが、それを見いだすことはない。その日には、美しい処女も若い男たちも渇きのために気を失う。サマリアの罪にかけて誓い、「ダンよ、あなたの神は生きている」と言い、「ベエル・シェバの道は生きている」と言う者どもは、みな倒れて、もはや再び立ち上がることはない。アモス 8:11–14。