1798年にウライ川の幻の封印が解かれたときにもたらされた知識の増加は、1844年の「真夜中の叫び」の運動で頂点に達する試練の過程を生み出した。現在、封印が解かれつつある終末の「真夜中の叫び」は、その歴史によって表されており、その歴史とまったく同じ試練の真理を含んでいる。というのも、いま解き明かされつつある「真夜中の叫び」のメッセージは、ミラーの宝石の回復だからである。
「1841年、42年、43年、44年に私たちが受けた真理は、今や研究され、宣べ伝えられるべきである。第一、第二、第三の天使のメッセージは、将来、大きな声で宣べ伝えられるであろう。それらは、熱心な決意をもって、また聖霊の力によって与えられるであろう。」『Manuscript Releases』第15巻、371頁。
私たちの時代の真夜中の叫びの預言的メッセージの主要な主題は、第三の災いに関するイスラム教の役割である。イスラム教の三つの災いは、ハバククの二枚の板の上にすべて表されている。終わりの時の真夜中の叫びのメッセージは、終わりの時の遅延の時が到来した2020年7月18日の失望のときに、封印が解かれ始めた。ミラー派の歴史の真夜中の叫びのメッセージと同様に、終わりの時のメッセージも、エクセターのキャンプ集会で表される地点に至るまで、段階的に展開していく。その時点で、乙女たちは油を持っているか、持っていないかのどちらかだ。
エルサレムの民を治める嘲る者たちに対するイザヤの災いの宣告は、幻がエフライムの酔いどれにとって封じられた書のようになってしまったことを示している。イザヤの箇所では、アドベンチズムの歴史で行われてきたような、サタン的な象徴を神の象徴へと変えるわざは、陶器師の粘土と見なされるべきだとされている。そのわざとは、本来はサタンの象徴である「the daily」を、キリストの象徴として定義づけることだった。ダニエルが「tamid」という語を異教の象徴として用いたとき、彼は象徴的な目的でその語を選んだ。というのも、その語は「絶え間ない」という意味だからである。
世界をハルマゲドンへと導く三つの勢力があり、そのうち最初のものは竜(異教)である。竜は天において神に対する戦いを始めた。竜はその戦いを千年のミレニアムの終わりまで続け、その終わりに最終的に滅ぼされる。
そして千年が満ちると、サタンはその牢から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民、すなわちゴグとマゴグを惑わし、彼らを戦いのために集めるために出て行く。その数は海の砂のようである。彼らは地の広がりに上って行き、聖徒たちの陣営と愛する都を取り囲んだ。すると天から神のもとより火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。彼らを惑わした悪魔は、獣と偽預言者のいる火と硫黄の池に投げ込まれ、彼らは世々限りなく昼も夜も責め苦に会う。黙示録 20:7-10。
世界をハルマゲドンへ導く三つの勢力の第二である獣(教皇制)と、その三つの勢力の第三である偽預言者(アメリカ合衆国)は、いずれも十字架の歴史の後に歴史の舞台に登場し、キリストの再臨の時にともに滅ぼされる。
そして、獣は捕らえられ、彼と共に、彼の前で奇跡を行い、その奇跡によって獣の刻印を受けた者たちやその像を拝む者たちを惑わした偽預言者も捕らえられた。この両者は、生きたまま硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。ヨハネの黙示録 19:20。
ダニエルが異教(サタン)の象徴としてヘブライ語の「継続」という語を選んだとき、彼は、神に対して絶えず戦ってきたのがサタンであることを示す語を選んだのである。ほかの二つの勢力は、神に対する戦いにおいて、定められた期間にのみ活動する。ダニエルが「タミード」(継続)という語を選んだのは、意図的であり、正確であった。
主が深い眠りの霊を注ぎ、彼らの目を閉ざされた人々への災いについてのイザヤの記述は、第二十八章から第三十章にかけて続いており、彼は次のように記している。
今、行って、それを彼らの前に板に書き、書物に記して、後の世のため、いつまでも永遠に残るようにせよ。これは反逆の民、偽りを言う子ら、主の律法を聞こうとしない子らであるからだ。彼らは先見者に「見るな」と言い、預言者に「正しいことを私たちに預言するな。心地よいことを語れ。欺きごとを預言せよ」と言う。「道から去れ。道筋を外れよ。イスラエルの聖なる方を私たちの前から遠ざけよ。」 それゆえ、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「あなたがたがこの言葉を侮り、圧迫と曲がり事に信頼し、それに頼ったゆえに、この不義は、あなたがたにとって、今にも崩れ落ちようとして膨れ上がった高い壁の亀裂のようになり、その破れは一瞬にして突然来る。これは、陶器師の器を粉々に打ち砕くように打ち壊され、容赦されない。その破片の中には、かまどから火をかき出すにも、井戸から水を汲むにも使える欠片さえ見いだされない。」 まことに、主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「立ち帰って静まるなら、あなたがたは救われる。静けさと信頼こそ、あなたがたの力となる。だが、あなたがたは望まなかった。」 イザヤ書 30:8-15
書き記された「板」とは、読む者が「走って」そのメッセージを広められるように作られた、ハバクク書2章の「板」のことである。「板」を「記した」「書」はハバクク書である。ハバククの「書」にあるその「板」は、「反逆の民、偽りの子ら、主の律法を聞こうとしない子ら」を明らかにする試しの過程を表している。「聞く」ことを拒む「反逆の民」とは、見張りのラッパの音を聞くのを拒んだ、エレミヤ書に出てくる者たちのことである。
また、わたしはあなたがたの上に見張り人を立てて、「ラッパの音に耳を傾けよ」と言った。しかし彼らは、「わたしたちは聞かない」と言った。エレミヤ書 6:17
反逆者とは、イザヤの歴史においても、またキリストの歴史においても、耳を貸そうとしなかった者たちである。
彼は言った。「行って、この民に告げよ。『聞け、しかし悟るな。見よ、しかしわきまえるな。』この民の心を鈍らせ、その耳を重くし、その目を閉ざせ。彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、いやされることのないように。」イザヤ書 6:9, 10.
イザヤの耳の聞こえない反逆者たちは「聞く」ことはできるが、「聞かない」。そして「聞く」ことを拒むことによって、彼らが「理解しない」ことが明らかになる。ダニエルの悪しき者たち、すなわちマタイの愚かな乙女たちこそが、ハバククの「書」に記されている「テーブル」に表された知識の増加を理解しないのである。もしイザヤの耳の聞こえない反逆者たちが聞くなら、彼らは回心し、癒やされることができただろう。だが彼らの心は肥え太っているので、真夜中の叫びのメッセージを理解することができない。イエスはその耳の聞こえない反逆者たちに関して第二の証言を与えた。
弟子たちが近寄って彼に言った、「なぜ彼らにはたとえでお話しになるのですか。」 彼は答えて彼らに言われた、「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていないからである。持っている者にはさらに与えられて、いよいよ豊かになる。しかし持たない者は、持っているものまでも取り上げられる。だから、わたしは彼らにたとえで話す。彼らは見ていても見ず、聞いていても聞かず、また悟らないからである。そして彼らには、こう言うイザヤの預言が成就している、『あなたがたは聞くには聞くが、悟らない。見るには見るが、認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じた。彼らが目で見、耳で聞き、心で悟って立ち返り、わたしが彼らをいやすことのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているゆえに幸いであり、あなたがたの耳は聞いているゆえに幸いである。まことにあなたがたに言う。多くの預言者や義人が、あなたがたが見ているものを見たいと願いながら見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願いながら聞けなかったのである。 マタイによる福音書 13:10-17」
賢い者は、たとえ話の奥義を悟る。これは、行に行を重ねて示された真理である。賢い者は見、聞くゆえに幸いであり、賢い者と幸いな者は共にダニエル書第十二章において表されている。「賢い者」とは、(心で)知識の増大を理解する者であり、これはハバクク書に記された「表」によって表されている。そして「幸いな者」とは、待つ者である。
彼は言った。「ダニエルよ、自分の道を行きなさい。これらの言葉は終わりの時まで閉ざされ、封印されているからだ。多くの者は清められ、白くされ、試される。しかし悪者は悪を行い、悪者のうちには誰ひとり悟る者はいない。だが賢い者は悟る。さらに、日ごとのささげ物が取り除かれ、荒廃をもたらす忌むべきものが据えられる時から、千二百九十日ある。待ち望み、千三百三十五日に至る者は幸いである。ダニエル書 12:9-13。」
ミラー派は、1335日が、508年に異教("the daily")が「取り去られた」ときに始まったと正しく理解していた。祝福は、1843年に待っていた者たちに約束された。その箇所の"cometh"という語は「触れる」を意味する。1843年は終わったときに1844年に「触れた」。1843年が終わると、ハバククの「遅延の時」が到来し、「板」について記している「書」で命じられているとおりに待った者たちに祝福が宣言された。「ハバクク書」は、幻を「待て」と命じた。
ダニエルは、彼の書が封印を解かれた1798年(終わりの時)の歴史を指し示し、その時に三段階の試練の過程(清められ、白くされ、練られる)が生み出されたと述べている。その過程は、七つの雷の秘められた歴史が顕現することによって結末に達した。その秘められた歴史とは、第一の失望、真夜中の叫びのメッセージ、そして大失望によって表される真理の三つの道標である。第一の失望に至るという祝福は、1798年から1844年にかけての歴史の終わりにおける三段階の試練の過程を表している。
1798年から1844年の大失望に至る歴史は、1989年から間もなく来る日曜法に至る歴史を象徴している。最初の失望の時に遅れ始めた幻を待つ者には、祝福が約束されている。ダニエル書12章の「賢い者」とは、「祝福された者」であり、「待つ者」である。悪しき者とは、心で「聞かず」、また「見ない」者たちである。ミラー派運動の全経験はダニエル書の四つの節に要約されており、これらの節はまた、十四万四千人の封印の歴史をも表している。
それら四つの聖句に表されている聖なる歴史は、ハバククの板に表された知識の増大と、イエスが「行に行を重ねる」という方法で教えることを通して示された知識の増大とを理解することを前提としている。イエスは「知恵ある者」に預言の奥義を説明するため、たとえを次から次へと提示された。ダニエル書12章の「悪しき者たち」は悟らず、またテサロニケ人への第二の手紙2章では、彼らの悟らないことは真理を憎むこととして表され、それが強い惑わしをもたらす。パウロの手紙で悪しき者たちが愛さない真理は「日ごとのいけにえ」であり、そしてダニエルの四つの聖句で特に指し示されている預言の真理も「日ごとのいけにえ」である。
イエスは弟子たちに彼らは幸いだと言い、そのことによって、回心するために見たり聞いたりすることを拒んだ者たちが描かれているイザヤ書の人々と彼らを対比した。 ダニエル書12章で幸いとされているのは、待つ者たちである。 ダニエル書12章にある四つの節、またその節のミラー派の歴史における成就、さらに見聞きを拒む一つの集団とのイザヤにおける対比、そしてキリストによる同じ二つの集団の区別は、すべて、2020年7月18日に到来した七つの雷の隠された歴史を指し示している。 最初の失望から始まったミラー派の歴史の最終的な試練の過程が、今、繰り返されている。 ある者は見るだろうし、他の者は見ることを拒むだろう。
1840年から1844年に与えられたすべてのメッセージは、今こそ力をもって示されるべきである。多くの人々が方向を見失っているからである。これらのメッセージは、すべての教会に届けられなければならない。
キリストは言われた。「あなたがたの目は見ているので幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているので幸いです。まことにあなたがたに言います。多くの預言者や義人たちは、あなたがたが見ていることを見たいと願いながら、見ることができず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願いながら、聞くことができませんでした」[マタイ 13:16, 17]。1843年と1844年に見られた事柄を見た目は幸いです。
「そのメッセージは与えられた。そして、時のしるしが成就しつつあるゆえに、そのメッセージを繰り返して伝えることに遅れがあってはならない。終結の働きは成し遂げられなければならない。大いなる働きが短期間に行われるであろう。まもなく、神の定めにより、大いなる叫びへと膨れ上がるメッセージが与えられるであろう。そのとき、ダニエルは自分の分に立って、証しをするであろう。」原稿公刊集 第21巻 437頁。
ウィリアム・ミラーは、天使に導かれて、「the daily」が異教ローマの象徴であると理解した。シスター・ホワイトは、その理解が正しいことを直接確認した。ハバクク書に記されている「表」に示されたその理解は、「来たるべき時のため」のものである。その「書」の封印が解かれると、「反逆し、偽りを語る子ら」が現れる。「子ら」は最後の世代の象徴であるゆえに、イザヤの箇所にある「来たるべき時」は、調査審判の最後の時代を特に指し示している。
イザヤは、「偽りの子ら」が、「書物」に記されている「表」に示された預言的メッセージを退けると述べている。というのも、彼らは「先見者に、『見るな』と、預言者に、『私たちに正しいことを預言するな。耳ざわりのよいことを語れ。偽りを預言せよ』と言う」からである。1863年、ラオデキヤのアドベンチズムは、偽りの子らの要求をかなえるという、次第にエスカレートしていく歩みを始めた。その働きは、イザヤによって、ミラライトの基礎にある古い道を拒むこととして表されている。彼らはこう言ったからである。「道をあけよ。道からそれ。イスラエルの聖なる方を私たちの前から取り去れ」。その道、すなわち「道」は、エレミヤの言う「昔からの道」である。
主はこう言われる。「分かれ道に立って見よ。いにしえの道を尋ね、どれが良い道かを尋ね、それを歩め。そうすれば、あなたがたは魂の安らぎを見いだす。」しかし彼らは、「そこを歩まない」と言った。エレミヤ書 6:16.
「偽りの子ら」によるエレミヤの「古き道」の拒絶は、「真夜中の叫び」のメッセージの拒絶であり、そこにこそ「安息」が見いだされる。それはまた、イザヤにおいて彼らが聞こうとしなかった「安息と憩い」であり、さらに「後の雨」のメッセージの憩いでもある。そのメッセージは、ミラー派の歴史に表され、「書物」に記された「表」に示された「真夜中の叫び」のメッセージである。「偽りの子ら」が「真夜中の叫び」のメッセージを拒むことは、彼らが「イスラエルの聖者を自分たちの前から退けよう」と望むことによって表されている。アルファとオメガが終わりを表すために確かに用いるであろうエレン・ホワイトの最初の幻は、義人の道を示し、その始まりにある光を示し、その道の終わりまで「賢い者」を導くのが誰であるかを明らかにしている。
彼らは道の始まりで、自分たちの背後に明るい光を据えていたが、それは天使が私に「真夜中の叫び」だと告げたものだった。この光は道全体にわたって輝き、彼らの足もとを照らして、つまずかないようにした。
彼らの目の前におられて都へと導いておられるイエスから目を離さなければ、彼らは安全であった。だがまもなく、何人かは疲れ、都ははるか遠くにあり、自分たちはもっと前にすでにそこへ入っているはずだと期待していたと言った。そのときイエスは、栄光に満ちた右の御腕を挙げて彼らを励まされ、その御腕から光が出て再臨の一団の上を揺らめきながら覆い、彼らは「ハレルヤ!」と叫んだ。ところが、ほかの者たちは軽率にも背後の光を否定し、ここまで自分たちを導いたのは神ではないと言った。すると背後の光は消え、彼らの足もとは全くの暗やみとなり、彼らはつまずいて目標とイエスを見失い、道から外れて下の暗く邪悪な世へと落ちていった。『エレン・G・ホワイトのキリスト教的経験と教訓』57頁。
それは初めにも終わりにも「真夜中の叫び」の光であった。彼らが自分たちの前にいることをやめさせたいと望んだのは、イエス(イスラエルの聖なる方)であった。イエスの栄光の右の御腕からの光は、「書」に記されている「板」に表された「真夜中の叫び」の光であった。「偽りの子ら」が、キリストの「真夜中の叫び」のメッセージと自分たちが歩むべき道を拒んだことによって、彼らがその道から踏み外したとき、神のさばきが彼らに臨んだ。突然に打ち砕かれる「高い壁」とは、間もなく来る「日曜法」によって破壊される、政教分離の「壁」である。そのさばきは「瞬時に、たちどころに」やって来て、「陶工の器が粉々に砕かれる」ようになる。それは、「the daily」という悪魔的な象徴を逆さにし、それをキリストの象徴と同一視することに結びついたさばきである。
まことに、あなたがたが物事を覆すことは、陶工の粘土と見なされよう。なぜなら、作られたものがそれを造った者について「彼は私を造らなかった」と言うだろうか。あるいは、形づくられたものがそれを形づくった者について「彼には知恵がない」と言うだろうか。イザヤ書 29:16
『常の務め』は、悪しき者と賢い者の区別を示すダニエル書12章の四節を結び合わせる預言的真理である。『常の務め』は、第二テサロニケにおいて強い惑わしを受ける者たちが憎む真理である。『常の務め』は、『偽りの子ら』がイスラエルの聖なる方に自分たちの行く手から退いてほしいと願う、その願望を表している。そして彼らの罰は、陶工の器が打ち砕かれることによって表されており、その残されたものは愚かなおとめたちの失われた状態のたとえである。というのも、そこに砕け散って残っている陶工の器の破片では、『炉から火を取るためにも、あるいは穴から水をくみ出すためにも』使える『かけら』は『見いだされない』からである。
「火」と「水」はいずれも聖霊の象徴であり、十人の乙女のたとえに出てくる油も同様である。1844年8月のエクセターのキャンプ集会でそうであったように、真夜中の叫びが一瞬にして突然やって来ると、「偽りの子ら」が油(=水や火)を見つけることは不可能になる。彼らは最初の失望の後、エレミヤがそうであったように「立ち返れ」と呼びかけられたが、拒んだ。
あなたの御言葉を見いだし、私はそれを食べた。あなたの御言葉は私にとって、心の喜び、楽しみとなった。万軍の主なる神よ、私はあなたの名によって呼ばれているからだ。私はあざける者の集いに座らず、喜びもしなかった。あなたの御手のゆえに、私はひとり座った。あなたが私を憤りで満たされたからだ。なぜ私の痛みは絶えず、私の傷は治ることを拒む不治のものなのか。あなたは全く私にとって偽り者のように、涸れ果てる水のようになられるのか。ゆえに、主はこう仰せられる。「もしあなたが立ち返るなら、わたしはあなたを再び連れ戻し、あなたはわたしの前に立つであろう。もし卑しいものの中から尊いものを取り分けるなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らをあなたのもとに帰らせよ。だが、あなたは彼らのもとに帰ってはならない。わたしはこの民に対して、あなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに向かって戦うが、あなたに打ち勝つことはできない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ」と主は仰せられる。「わたしは悪しき者の手からあなたを救い出し、恐るべき者の手からあなたを贖い出す。」エレミヤ書 15:16-21
エレミヤは、最初の失望の後に立ち返った者たちを表している。主の前に「立つ」ため、また主の「口」となるために、「尊いものを卑しいものからより分ける」という働きに入った者たちである。彼らは、九章のダニエルによっても表されており、自分たちの散らされた状態を悟り、そののちにレビ記二十六章の祈りをささげた者たちである。彼らはまた、「偽りの子ら」と対比される、ダニエルとエレミヤ、そしてハバククの見張り人たちによっても表されている。「偽りの子ら」という呼称は、「イスラエルの聖なる方」が次のように言われたときにも用いられた。「立ち返りと憩いによって、あなたがたは救われる。静けさと信頼は、あなたがたの力となる。しかし、あなたがたはそれを望まなかった。」
ミラーの宝石とは、ハバククの板に示されている諸真理であり、その板は、二つの種類の礼拝者を生み出す「真夜中の叫び」のメッセージの試しを表している。それらの宝石に対して現れる反逆の象徴が「the daily」である。ミラーは「the daily」についての理解において正確であったが、その理解は彼が生きた歴史によって制限されていた。そして、彼が部屋の中央の机の上にいつも置いていたその宝石は、ミラーが最初に自分の机に置いたときよりも、今や十倍も明るく輝いている。それらは今、より大きな宝石箱の中にある。というのも、その箱は今や、ミラーの時代にそうであったように聖書だけを表しているのではなく、聖書と預言の霊の両方を表しているからである。
終わりの時代に信仰を試す光をもたらすのはこの二人の証人であり、終わりの時代に主要な戦場となるのもこの二人の証人である。ミラーはその戦いを見た。というのも、彼の夢の中で彼らは彼の小箱(聖書)を取り上げ、それを引き裂いたからである。終わりの時代の「賢い者」を代表するヨハネは、「神の言葉とイエス・キリストの証しのために、パトモスと呼ばれる島にいた」。ヨハネは、聖書とエレン・ホワイトの著作の両方のメッセージを信じていたために迫害されていた。
次の記事で、1798年に封印が解かれたウライ川の幻に示されている真理の考察を続けます。
将来を恐れる理由は何もない。ただし、主がこれまで私たちを導いてこられた道と、過去の歴史における主の教えを忘れてしまうときは別である。『Life Sketches』196頁