主が古代イスラエルと契約を結ばれたとき、主はその契約関係の土台であり象徴となる二枚の石板をお与えになった。また、その二枚の石板は、古代イスラエルが世界に対してその二枚の石板の生ける証しを示す責任を明らかにした。主が現代イスラエルと契約を結ばれたとき、主はその契約関係の土台であり象徴となる二枚の石板をお与えになった。また、その二枚の石板は、彼らが四枚すべての石板の生ける証しを世界に示す責任を明らかにした。
神がエジプトの奴隷の束縛という文字どおりの奴隷状態から彼らを救い出し、紅海の渡りにおける失望を通って彼らを導かれた直後に、二枚の石の板は文字どおりの古代イスラエルに与えられた。文字どおりの古代イスラエルが束縛の下にあった期間は、預言において明確に四百三十年と特定されており、束縛の間に、文字どおりの古代イスラエルは第七日の安息日を忘れ、守ることをやめてしまった。
二枚の石板は、神が彼らをカトリックの束縛という霊的な奴隷状態から救い出し、1844年の大失望を切り抜けさせた直後に、霊的現代イスラエルに与えられた。霊的現代イスラエルが束縛の下にあった期間は、予言において明確に1260年と示されており、その束縛の間に彼らは第七日安息日を忘れ、守ることをやめてしまった。
神が古代イスラエルへ持って行くようモーセに二枚の石板をお与えになったまさにそのとき、彼の兄アロンは子牛の黄金像を作っていた。十戒の二枚の石板は、神がねたむ神であることを示しており、そのねたみはとりわけ偶像崇拝に対して現れる。そしてモーセが山を下ってくると、古代イスラエルの民は、神の代弁者として選ばれていた者が作った黄金像のまわりで裸になって踊っていた。
モーセは、自分を遣わされた主のすべての言葉と、主が彼に命じたすべてのしるしを、アロンに告げた。モーセとアロンは出かけ、イスラエルの子らの長老たちを皆、呼び集めた。アロンは、主がモーセに言われたすべての言葉を語り、民の目の前でそれらのしるしを行った。出エジプト記 4章28-30節。
契約の歴史の中で二枚の契約の板が与えられた時期に古代イスラエルを導いた預言者の兄弟は、「ねたみの像」の反逆の指導者であった。契約の歴史の中で二枚の契約の板が与えられた時期に現代イスラエルを導いた女預言者の夫は、1863年の反逆の指導者であり、また、1863年は、祭壇の門の入り口に「ねたみの像」が据えられることで表されるアドベンチズムの第一世代を画する年である。
すると彼は私に言った。「人の子よ、今、北の方に向かって目を上げよ。」そこで私は北の方に目を上げて見ると、見よ、北の方にある祭壇の門の入口に、このねたみの像があった。エゼキエル書8章5節。
「祭壇」はキリストの象徴である。
私たちは、聖なるものと俗なるものを混同する危険にさらされている。神からの聖なる火は、私たちの働きに用いられるべきである。真の祭壇はキリストであり、真の火は聖霊である。これこそが私たちの霊感の源である。人が信頼できる助言者となるのは、聖霊がその人を導き、指導するときに限られる。もし私たちが神とその選ばれた者たちから離れて、見知らぬ祭壇に問い尋ねるなら、私たちは自らの行いに応じた答えを受けることになる。Selected Messages 第3巻、300ページ。
「門」は教会です。
「謙遜で信仰深い魂にとって、地上の神の家は天の門である。賛美の歌、祈り、キリストを代表する者たちの語る言葉は、神が定められた手段であり、天にある教会、すなわち汚れたものは何一つ入りえない、より高尚な礼拝のために民を備える。」『証言』第5巻、491頁。
1863年、ラオデキア派アドベンティズムは法的に登録された教会となり、運動ではなくなった。その時点で彼らは「教会史に入った」。1863年、キリストの教会はアメリカ合衆国政府と法的な関係を結んだ。その年、彼らはハバククの二枚の聖なる板に取って代わる偽の図表も導入した。第二の板が作成されるやいなや、預言的歴史の観点では、アロンに象徴される者たちは偽の像を準備していた。
第二戒は、偶像崇拝と像の礼拝に対する最も明確な警告である。そこではまた、神はご自身の性質をねたむ神であると明らかにしておられる。さらにそこで、神は悪しき者への裁きを三代、四代にまで及ぼすという原則を定めておられる。十戒はキリストの御品性の写しである。
キリストの拒絶と、それに続く結果について、彼らは責任を負っていた。国の罪も国の滅びも、宗教指導者によるものであった。
わたしたちの時代にも同じ力が働いてはいないだろうか。主のぶどう園の農夫たちの中に、ユダヤ人の指導者たちの跡をたどっている者が多くはないだろうか。宗教的な教師たちは、神の言葉の明らかな要求から人々を遠ざけてはいないか。神の律法への従順を教える代わりに、むしろ背きを教え込んでいるのではないか。多くの教会の説教壇からは、神の律法は自分たちを縛るものではないと人々に教えられている。人間の伝統や定めや慣習があがめられている。神の賜物ゆえの誇りと自己満足が助長される一方で、神の要求は無視されている。
「神の律法を退けるとき、人は自分が何をしているのかを知らない。神の律法は、神の品性の写しである。それは神の御国の原則を体現している。これらの原則を受け入れることを拒む者は、神の祝福が流れる水路の外に自らを置いている。」『キリストの実物教訓』305頁。
キリストの品性は御姿そのものであり、そこには、神がねたむお方であることも含まれている。神のねたみは、キリストにおいて、彼が神殿を二度清めたときに現れた。最初の神殿清めの際には、そのわざを目撃した弟子たちは、聖書が神のねたみについて述べていることを思い起こすよう導かれた。
ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。イエスは宮の中で、牛や羊や鳩を売る者たちと、両替人たちが座っているのを見つけられた。そこでイエスは細い縄で鞭を作り、彼らを、羊も牛もろとも、みな宮から追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒された。そして鳩を売る者たちに言われた。「これらのものをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」すると弟子たちは、「あなたの家に対する熱心がわたしを食い尽くす」と書かれているのを思い起こした。ヨハネによる福音書 2:13-17
聖書では、ヘブライ語でもギリシア語でも、「熱心な」と「ねたむ」は同じ語である。キリストが宮を清めたとき、彼は神のねたみを現していた。それは第二戒において示されている神のご性質であり、とりわけ偶像礼拝に対して現れる。モーセが二枚の板を携えて山を下り、アロンのしたことと民のしていることを知ったとき、彼はその二枚の板を打ち砕いた。その二枚の板は、神がねたむ神であることを示す具体的なかたちであり、ねたみの真の姿であった。モーセが二枚の板を打ち砕いたとき、彼は第二戒において示されているまさにそのねたみを現していた。
そこでモーセは身を翻し、山を下った。彼の手には証の二枚の板があった。板は両面に書かれており、一方の面にも、もう一方の面にも書かれていた。しかもその板は神の御業であり、文字は神の文字で、板に刻まれていた。ヨシュアが民の叫ぶ声を聞くと、モーセに言った。「陣営に戦いの騒ぎがあります。」すると彼は言った。「勝ちどきをあげる声でもなければ、敗れて叫ぶ声でもない。わたしが聞くのは歌う者たちの声だ。」やがて彼が陣営に近づくと、子牛と踊りを見た。そこでモーセは激しく怒り、手にしていた板を投げ捨て、山のふもとでそれを打ち砕いた。出エジプト記 32:15-19。
二つの石板は、神の品性の証しであった。神の品性は、キリストの義によって人のうちに形づくられるべき像である。二つの石板は真の嫉妬の像であり、真の嫉妬の像が古代イスラエルに授けられていたまさにその時、アロンは偽の嫉妬の像を作り出していた。キリストが内に形づくられている者は、その御姿とその義の衣を持つ。しかし、アロンの祝宴の参加者たちは裸で踊っていた。彼らはラオデキヤ人だったからである。ラオデキヤ人は「みじめで、哀れで、貧しく、盲目で、裸である」。
そしてモーセは、民が裸であるのを見た。(アロンが、彼らの敵の中で彼らに恥をかかせるほどに、彼らを裸にしていたからである。)出エジプト記 32:25
1856年、偽の図表が作成される7年前に、ジェームズ・ホワイトとエレン・ホワイトの両名は、その運動がラオデキアの状態へと移行したことを認めた。 1863年には、アドベンティズムは、古代イスラエルが偽の嫉妬の像の周りで踊り回ったとき文字どおり「裸」であったのと同じほど、霊的に「裸」であった。 アロンが作った偽りのものは金の偶像だったが、それは子牛、すなわち獣の像であった。 それは獣の像であり、また獣への像でもあった。 金の子牛は獣の像だったが、同時に、イスラエルをエジプトの束縛から救い出したのは彼らだとアロンが不義にも宣言した神々に奉献されたものでもあった。
彼は彼らの手からそれらを受け取り、それを鋳て子牛を作った後、彫刻の道具で形作った。すると彼らは言った、「イスラエルよ、これがあなたの神々だ。あなたをエジプトの地から導き上った神々だ。」アロンはそれを見ると、その前に祭壇を築き、布告して言った、「あすは主への祭りである。」翌朝早く彼らは起き上がり、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を携えて来た。こうして民は座して飲み食いし、立ち上がって戯れた。出エジプト記 32:4-6
黄金の子牛は獣の像であったが、それは偽りの神々にささげられたので、獣への像(ささげ物)でもあった。その像はバビロンの象徴である金で造られ、しかも子牛であったが、子牛は聖所の奉仕における最上のささげ物である。それはエジプトの神々にささげられていた。奥義バビロン(すべての預言的証言が世の終わりを指し示すもの)は、獣にまたがる女から成っている。その女が乗っている獣は国際連合(十人の王)であり、竜と無神論とエジプトの象徴である。女そのものは、神の真の教会を模倣した偽りの存在である。エジプトの神々にアロンがささげた黄金の子牛は、黙示録17章の大淫婦を予表していた。すなわち、バビロン(金)であり、獣(エジプト)にまたがり、偽りの教会(子牛)である者である。
同時にアロンは祭壇を築いたが、それは先に定義したとおり、真の祭壇であるキリストを表していた。次いで彼は翌日を主への祭りと宣言することで、偽りの礼拝制度を打ち立てた。アロンの金の子牛は獣の像であり、また獣に捧げられた像でもあって、偽りのキリストの前に据えられ、その偽りの礼拝制度を祝うために一日が設けられた。
アメリカ合衆国は、獣の像を造り、世界にその手本に倣うよう強いる勢力である。アメリカ合衆国は、その礼拝制度を世界に押しつける力を持ち、それを自分の「前」にいる獣の目前で行う。
また私は、地から上ってくるもう一つの獣を見た。それは子羊のような二本の角を持ち、竜のように語った。彼は第一の獣の前でそのすべての権威を行使し、地とそこに住む者たちに、死に至る傷が治ったその第一の獣を拝ませた。ヨハネの黙示録 13:11-12
罪の人である教皇権は、黙示録十三章の海の獣である。間もなく施行される日曜法のとき、アメリカ合衆国が竜のように語ると、世界に対して、自分の「前に」ある獣の像を立てるよう強制し始める。アメリカ合衆国(地の獣)の前にいる獣とは、教皇権(海の獣)のことである。教皇権は偽のキリストであり、アロンは偽のキリストの前に金の像を据えた。というのも、キリストこそ真の祭壇だからである。アロンはさらに、翌日に行われることになっていた祭りの日を布告することによって、偽りの礼拝制度を制定した。アメリカ合衆国もまた偽りの礼拝制度を強制し、それは偽の礼拝日に結びついている。
モーセが山を下ったとき、論争は、真の嫉妬の像と偽りの嫉妬の像—キリストの像かサタンの像か—の間にあった。偽りの側は、偽りのキリスト(祭壇)、偽りの経験(ラオデキア的)、偽りの礼拝日(「あすは主の祭りだ」)から成っていた。金の子牛の反逆は、やがて来る日曜法における反逆を表すが、同時に1863年のラオデキア的アドベンチズムの反逆も表している。
1863年、ハバククの二つの表に示されているミラーの夢の宝石を覆い隠すために、偽りの表が導入された。それら二つの表は、山でモーセが受けた二枚の板によって予表されていた。1863年にはまた、アメリカ合衆国政府と法的な結びつきが結ばれ、これによってミラー派運動は終わり、ラオデキア運動はセブンスデー・アドベンチスト教会として法的に登録された。その関係は、アロンの「獣の像」によって表されており、これは預言上、教会と国家の結合と定義される。こうして、1863年にミラー派が教会と国家の結合関係を確立したことを象徴し、また、まもなく到来する日曜法の時のアメリカ合衆国をも象徴している。
ラオデキヤの偽りの経験を象徴するアロンの裸で踊る愚か者たちの姿は、1856年当時のミラー派運動が陥っていた状態と同じである。アロンの踊る愚か者たちによって表された霊的経験は、偶像崇拝に対する神の御性質であるねたみを現していたモーセの経験とは対照的であった。預言において「踊り」は欺きの象徴であり、アロンの踊る愚か者たちはまた、ツロの淫婦がその歌を歌うあいだ、アメリカ合衆国が世界にネブカドネザルの楽隊に合わせて「踊る」ことを強いてもたらされる欺きも表していた。
1863年、ラオデキアのミラー派運動は、法的に登録されたラオデキアのセブンスデー・アドベンチスト教会へと移行した。これまでの記事で指摘したように、1863年にはエリコが再建された。というのも、エリコはラオデキアの繁栄の象徴であり、エルサレムの都の偽物として機能するからである。1863年、偽の預言図表の導入は、アロンと金の子牛、そして踊り狂う愚か者たちの歴史の繰り返しを示していた。紅海での救出の歴史は、初期アドベンチズムの歴史を例証するためにホワイト姉妹によって繰り返し用いられてきており、この適用は、ねたみを起こさせる像をめぐる論争におけるモーセとアロンの歴史と完全に一致している。
1863年、祭壇(キリスト)の前にある門(教会)に嫉妬の像が据えられたとき、ラオデキア的アドベンティズムの第一世代が始まった。その第一世代はその後、エスカレートしていく忌むべきものの歴史へと「入っていった」。
すると彼は私に言った。「人の子よ、今、北の方に向かって目を上げよ。」そこで私は北の方に目を上げて見ると、見よ、北の方にある祭壇の門の入口に、このねたみの像があった。エゼキエル書8章5節。
次回の記事でこれらの考察を続けます。
この恐ろしく厳粛な時にあって、私たちの状態はどうであろうか。ああ、教会にはなんと高慢がはびこり、なんと偽善、なんと欺き、着飾ることへの愛着や軽薄さ、娯楽への耽溺、そしてなんと権勢欲の強いことか。これらすべての罪が心を曇らせ、永遠の事柄が見分けられなくなっている。私たちは、この世の歴史の中で自分たちがどこにいるのかを知るために、聖書を調べようではないか。今この時、私たちのためになされている働きについて、そしてこの贖いの業が進められている間、罪人である私たちが取るべき立場について、賢明な理解を持つ者とならないだろうか。もし私たちが自らの魂の救いをいささかでも重んじるなら、断固として改めなければならない。真実の悔い改めをもって主を求め、魂の深い痛悔をもって自らの罪を告白し、それらがぬぐい去られるためにそうしなければならない。
私たちはもはや魔法のかかった地にとどまってはならない。私たちの猶予期間の終わりが間近に迫っている。すべての魂は自らに問おう。私は神の御前にいかに立っているのか、と。私たちの名がいつキリストの御口に上り、私たちの運命が最終的に決せられるのか、私たちは知らない。ああ、その決定はいったいどのようなものになるのだろうか!私たちは義人のうちに数えられるのか、それとも悪人のうちに数えられるのか。
教会よ、立ち上がれ、神の前でその背信を悔い改めよ。見張り人たちよ、目を覚ませ、ラッパに確かな音を吹き鳴らせ。私たちが宣べ伝えるべきものは明白な警告である。神はご自分のしもべたちに命じられる。「声をあげて叫べ、遠慮するな。ラッパのようにあなたの声を高く上げ、わが民にその背きを、ヤコブの家にその罪を示せ」(イザヤ58:1)。民の注意を引きつけなければならない。これができなければ、いっさいの努力はむなしい。たとえ天から御使いが降りてきて彼らに語ったとしても、その言葉は、死の冷たい耳に向かって語るのと同じほど、何の益ももたらさないだろう。
「教会は目を覚まして行動しなければならない。教会が道を備えるまでは、神の御霊は決して臨まない。心の真剣な吟味がなければならない。一致した忍耐強い祈りがあり、また、信仰によって神の約束を自分のものとすることがなければならない。昔のように荒布を身にまとうことではなく、魂の深いへりくだりがあるべきである。自画自賛や自己高揚の理由は少しもない。私たちは、神の力強い御手の下にへりくだるべきである。主は、真実に求める者を慰め、祝福するために現れてくださる。」『Selected Messages』第1巻、125、126頁。