春の祭りがその反型に出会ったキリストの線と関連づけられて、レビ記二十三章が二十二節ずつの二つの等しい区分に分割されるとき、金曜日の夕べの過越、安息日の種入れぬパン、週の第一日における初穂という三段階で始まる一つの線を示すことができる。これはキリストのバプテスマによって象徴される一つの道標であるが、その一つの道標は三段階を有している。

復活を起点として四十日を数え進めると、転換点に至る。というのも、その時、キリストは対面して教えることをやめ、雲のうちに昇天されたからである。十四万四千人もまた、雲のうちに昇る。

彼らは天から「ここに上れ」と彼らに告げる大いなる声を聞いた。そこで彼らは雲に包まれて天に昇り、彼らの敵は彼らを見た。その同じ時、大いなる地震が起こり、都の十分の一が倒れ、地震によって人々のうち七千人が殺された。残りの者たちは恐れおののき、天の神に栄光を帰した。第二の災いは過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかに来る。第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると天に大いなる声々があって、こう言った。「この世の国々は、我らの主とそのキリストのものとなった。彼は世々限りなく統べ治められる。」ヨハネの黙示録 11:12-15

第二と第三のわざわいはイスラームであり、第七の天使は第三のわざわいであって、すなわち重ねて言えばイスラームである。第三のわざわいは地震に際して速やかに到来する。その地震とはアメリカ合衆国における日曜法である。アメリカ合衆国は『黙示録』十三章の地の獣であり、日曜法は揺さぶり、すなわち震動である。地の獣は十王の筆頭であり、アメリカ合衆国が日曜法において覆されるとき、その都の十分の一が倒れる。日曜法のその同じ時刻に、エリヤとモーセによって象徴される二人の証人、すなわちペテロ、ヤコブ、ヨハネに対してキリストとともに変容した姿で現れたその同じ二人の証人が、雲のうちに天に挙げられる。そして万人がこれを見る。というのも、彼らの敵が彼らを見たからである。

復活から四十日後、イエスは雲のうちに「昇天」され、二階の広間での十日間が始まった。昇天は、三人の御使いのうち第二の者と同様、目に見える形での試験である。昇天に際し、御使いたちは、今しがた雲のうちに昇られたのと同様に、雲とともに再び来られると告げた。

彼がこれらのことを語られたのち、彼らが見つめている間に、彼は天へと上げられていった。そして、雲が彼を包み、彼らの目から見えなくした。彼が上って行かれるのを彼らが天を仰いでじっと見つめていると、見よ、白い衣をまとった二人の者が彼らのかたわらに立っていた。彼らは言った、「ガリラヤの人々よ、なぜ天を仰いで立ち尽くしているのか。あなたがたから離れて天に上げられたこの同じイエスは、あなたがたが彼が天に上って行かれるのを見たのと同じ有様で、そのように来られるであろう。」使徒行伝 1:9-11。

彼は再臨のとき、彼の御国の「栄光」のうちに来られる。

それゆえ、この淫乱にして罪深い時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者は、人の子もまた、聖なる御使いたちと共に、父の栄光のうちに来るとき、その者を恥じるであろう。マルコによる福音書 8章38節

この同じ「栄光」こそ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが変容の山で目撃したものである。変容の山もまた第二の段階であり、その前にはフィリポ・カイサリアが、後にはカイサリア・マリティマが続いた。第二の試験はまた「獣の像」の試験であり、獣の像が形成されつつあることを預言的に認識することを要請する試験である。第二の試験はまた、メルザルがダニエルとその友人たちを検分し、豆類を食べなかった者たちと彼らの顔色を比較することである。それは視覚的な試験である。アブラムの契約史における三つの契約段階のうち、第二の段階は割礼の「しるし」であった。第二の段階は、神の民が旗印として高く掲げられるときに施される封印を表している。第二の段階は「栄光」が顕現するところである。というのも、第一の天使の三段階は、恐れ、「栄光」、そして審判だからである。五旬節期の第四十日目は変容の山と符合する。あなたの足から履物を脱げ。あなたは聖なる地に立っているからである。

昇天は視覚に関わる試練であり、祭りの順序において、四十日目の昇天には、その五日前にラッパの祭りが先行する。ラッパの祭りは、第七のラッパの警告、すなわちイスラームの警告を指し示す。

昇天はラッパの後五日を経て起こり、さらにその昇天から五日後に、贖罪日が裁きを印づける。ラッパとは、いにしえの道であり、ラオデキヤのメッセージであり、イスラームであり、第一の天使の基礎的メッセージである。五日後、“face-to-face”の教示が終わるとき、第二の天使の可視的な第二の試験は、昇天によって印づけられる。その五日後、裁きが第三の天使を印づける。

神の家に対する裁きが終結してから五日後、ペンテコステの日を標として、アメリカ合衆国に対する裁きが臨む。

彼はアブラムに言った。「あなたは必ず知れ。あなたの子孫は自分たちのものではない地で寄留者となり、その地の人々に仕え、四百年の間、虐げられるであろう。また、彼らが仕えるその国民を、わたしは裁く。その後、彼らは多くの財を携えて出て来るであろう。」創世記15章13、14節

アメリカ合衆国という「国」が裁かれる日曜法の時に、十四万四千人が有する「大いなる実体」とは、神性を表象するイザヤ書第六章の実体である。アブラハムの契約の予言は「その国もまた」と述べており、これにより神の民が日曜法に先立って封印を受けることが示される。ついで日曜法において、仮庵の祭りの七日間によって表象される期間に、神の家の外にいる大群衆に対する裁きが遂行される中で、後の雨が無制限に注がれる。

2020年7月18日、二人の証人はソドムとエジプトの街路で殺害された。二人の証人はモーセとエリヤであり、ウィリアム・ミラーは彼の歴史におけるエリヤであった。ミラーは夢の中でひととき目を閉じ、そして2020年7月18日には、預言的に死のうちに目を閉じた。ミラーが目を開けると、部屋には誰もおらず、戸と窓が開いていた。その後ミラーは、塵払いの男が成し遂げていた働きを見て、慎重であるようにと彼に懇願し、塵払いの男は万事うまくいくと彼に保証した。

2023年7月、ミラーが荒野で目覚めたとき、同年12月31日の復活の直前に、種入れぬパンの祭りが到来した。その時点で、真の「真夜中の叫び」の預言的メッセージ—これまで封印が解かれてきた他のすべての預言的メッセージが予型してきたその「叫び」—の封印が解かれ始めた。というのも、三日半の終わりが「終わりの時」を画定し、そして「終わりの時」には必ず預言の封印が解かれるからである。これは常にそうである。キリストは昨日も今日も、そしてとこしえに同じ方であるからだ。人間への御取扱いも常に同じである。キリストはこれまでもそうであったように、今も同じ「筋道」に沿って御業をなさるからである。三日半の終わりに、イエス・キリストの黙示の封印が解かれた。

復活のからだは、まず形づくられ、その後いのちの息を吹き込まれたアダムにおいて予型的に示されていた。エゼキエル書37章の死んで干からびた骨もまた、第一の預言によってまず形づくられ、その後、第二の預言によって、四方の風のメッセージ(すなわち封印のメッセージ)により、命なきからだにいのちの息がもたらされ、生かされた。これら双方の例証において、封印の解かれた預言は二つの部分から成り、その提示のされ方は多様である。すなわち、内なるものと外なるもの、ウライ川とヒッデケル川の幻、ハゾンとマレの幻、二人の証人、二本の金の管、等々である。

ミラー派の歴史において、真夜中の叫びは第二の天使の預言と結びついた預言であった。二段階の預言であった。2023年に死に絶えた干からびた骨がよみがえったとき、預言上の必然としてそれらは試練に付されることになる。というのも、預言の封印が解かれることは、つねに三段階の試練の過程の開始となるからである。最初の二つの試練は、土台の試練、次いで神殿の試練である。

復活から五日後、無酵母パンの祭の期間によって表象される「荒れ野で叫ぶ声」は終わる。というのも、ミラーとバプテスマのヨハネによって表象されるエリヤは、いずれも、自分はその方の履物を担うにも値しないと告白しつつ、その方のために道を備えたからである。復活に際して、イエスは四十日にわたる「顔と顔を合わせて」の教えの期間を開始される。その「顔と顔を合わせて」の教えは、ダニエル書第十章においては、二十二日目に始まっている。そこでは、それは三つの段階と三度の接触、さらに強くされることの倍化として表象されている。

四十日が満ちる五日前に、イスラームの角笛による警告が発せられる。イスラームの警告は、キリストがエルサレムへの凱旋的入城の際に騎乗された驢馬によって象徴されていた。キリストがオリーブ山の斜面を下ってエルサレムに入られる前に、まず弟子たちに、行ってその驢馬のつなぎを解くよう命じられた。

この見解は1847年に与えられたもので、その当時、安息日を守っている再臨派の同胞はごくわずかであり、そのうちのさらに少数しか、その遵守が神の民と不信者との間に一線を画するのに十分な重要性をもつとは考えていなかった。今やその見解の成就が見え始めている。ここで言及されている「その艱難の時の始まり」は、災いが注がれ始める時を指すのではなく、キリストが聖所におられる間に、それらが注がれる直前の短い期間を指している。その時、救いの働きが終結に向かう一方で、地上には苦難が訪れ、諸国民は怒るが、第三天使の働きを妨げないように抑えられる。その時、「後の雨」、すなわち主の御前からの潤いが来て、第三天使の大いなる叫びに力を与え、七つの最後の災いが注がれる時期に立ち得るように聖徒たちを備えるであろう。『初期の著作』、85。

9/11に、主は御使いたちにろばを解き放つよう命じられ、その後、子のジョージ・ブッシュ(ジョージ・W・ブッシュ)がそのろばを抑止した。キュロスは第一の天使を予表する。彼が第一の勅令を公布したからである。ゆえに彼は、1840年8月11日と9/11の双方を表し、9/11において、「諸国民を怒らせること」によって表されるイスラムは解き放たれ、しかるのちに抑止された。その時、後の雨が降り始めた。キュロスは、1840年8月11日と9/11におけるイスラムの両道標を表す。

三週間にわたり、ガブリエルは暗黒の勢力と格闘し、キュロスの心に働いている影響を打ち消そうとした。しかし、その闘いが終結する前に、キリストご自身がガブリエルを助けに来られた。ガブリエルは宣言する。「ペルシアの国の君は二十一日のあいだ私に立ちはだかった。しかし、見よ、最も高位の君たちの一人であるミカエルが私を助けに来たので、私はそこにいてペルシアの王たちのもとにとどまった」。ダニエル10:13。神の民のために天がなしうることはすべて行われた。ついに勝利は得られ、敵の勢力は、キュロスの治世の全期間、そして約七年半在位したその子カンビュセスの治世の全期間にわたり、抑えられていた。『預言者と王』571頁。

キュロスの時、ならびに先駆者たちの言うところであるオスマンの覇権が終わった1840年8月11日には、第二の災いたるイスラムは抑制された。この抑制は、イスラムの三つの災いのうち第二の災いを表す第六の御使いによって、四人の御使い(四人のイスラムのスルタンを象徴する)が解き放たれたときに始まった、三百九十一年と十五日に及ぶ時の預言の終結を画した。9/11にイスラムは一撃を加え、ついで抑制されたが、これはキュロスの歴史および1840年における抑制によって表象されているとおりである。これら三つの証しはいずれも、イスラムの抑制または解き放ちを指し示しており、キリストの凱旋入城の始めにおいては、ろばが解き放たれた。

彼の凱旋入城に先立ってろばが解き放たれることは、昇天の五日前に到来するラッパのメッセージを指し示している。9/11の時そうであったように、また十五日後、すなわちペンテコステである日曜法においても再びそうなるように、イスラムが再び解き放たれるというメッセージは、真夜中の叫びの開始を画するメッセージである。ろばが解き放たれることは、真夜中の叫びのメッセージの宣布の始まり、すなわちアルファを画し、真夜中の叫びが大いなる叫びへと変わる日曜法の時に、イスラムは再び地の獣に打撃を与える。

真夜中の叫びの期間は、イスラームによるアルファの攻撃で始まり、イスラームによるオメガの攻撃で終わる。イスラームがアメリカ合衆国に加えるこれらの攻撃は、バラムとそのろばの証しにおいて表されており、むろん民数記第22章に記されている。地からの獣のプロテスタントの角としてのラオデキヤ的セブンスデー・アドベンチスト教会の運命はイザヤ書22章22節(内部)に表され、共和党の角の運命は民数記22章22節(外部)およびそれ以降に示されている。

彼が行ったので、神の怒りは燃え立った。主の御使いは、彼に敵する者として道に立った。そのとき、彼はろばに乗っており、彼の二人の従者が彼と共にいた。

雌ろばは、主の御使いが手に抜き身の剣を持って道に立っているのを見たので、道をそれて畑に入った。そこで、バラムは雌ろばを打ち、道に戻らせようとした。民数記 22:22、23。

9/11において、合衆国と小なるジョージ・ブッシュを象徴する偽預言者バラムは、グローバリストが合衆国を覆し、彼の言う「新世界秩序」を実現しようとする企てにおいて、父である第一のジョージ・ブッシュが着手した業を成就しようとしていた。グローバリストの聖書的動機は、神の残りの民を殺すことにあり、小なるジョージ・ブッシュは、彼がそう呼んだ「新世界秩序」を導入するという父の預言的遺産の終局を表している。ブッシュの「新世界秩序」は、日曜法において竜と獣と偽預言者の三重の連合に到達し、小なるジョージ・ブッシュは、日曜法において頂点に達する時期の開幕を画する。その時期とは、封印の時、獣の像の試練の時、黙示録十八章の第一の声によって表される時、その他多くを含む。バラムのろばが、十四万四千人がその額に封印されるまで、グローバリストのアジェンダを挫いた。

アサフの賛歌、または詩篇。神よ、どうか沈黙なさらないでください。口を閉ざさず、静観しておられないでください、神よ。というのは、見よ、あなたの敵は騒ぎ立ち、あなたを憎む者どもは頭をもたげています。彼らはあなたの民に対して狡猾なはかりごとをめぐらし、あなたの隠された者たちに逆らって謀議をこらしました。彼らは言います、「さあ、彼らを国として断ち滅ぼし、イスラエルの名がもはや記憶されないようにしよう。」まことに彼らは心を一つにして共謀し、あなたに逆らって同盟を結びました。詩篇 83:1-5。

第六節以降は、「敵」を「十」の諸国として特定し、それらは黙示録十七章において十人の王として表されている。そこでは十人の王は同一の思いを抱くが、アサフはこう言う、「彼らは心を一つにして共に協議した。彼らはあなたに逆らって結託している。」十人の王は終末の時代のグローバリズム的な悪の同盟であり、彼らは「国であること」から「イスラエル」「あなたの隠れた者たち」を「断ち切る」ことを定めている。三重の連合の「かしら」として教皇権を「掲げる」十人の王の同盟の働きは、「いと高き方の隠れ場」に隠されている霊的な「イスラエル」を消し去ることである。

9/11に、イスラムの驢馬が竜の企図をその進路から逸らした。というのも、黙示録18章の力ある天使が、その手に剣を携えて下って来たからである。そこでの内的試練は、古き道へと立ち返ることであった。その時点で、第一の天使と第二の天使の双方に関するミラー派の歴史の反復が、黙示録18章最初の三節の歴史に示されているとおりに開始した。しかも、その最初の三節とは、ニューヨーク市の巨大な建造物が打ち倒されるときに成就するとホワイト姉妹が述べた三節である。

9/11に黙示録18章1-3節が成就し、1840年8月11日にその栄光をもって地を照らすために降りた第一の天使に並行する事象に、続いてバビロンの陥落を告げる第二の天使が加わった。バラムは第一の天使の象徴であり、彼に付き従った二人の従者は第二の天使を表していた。

偽預言者の共和党の角に関するバラムの比喩において、バラムはイスラムのろばとさらに二度対峙することになる。三度目の対峙では、そのろばが「語り」、この預言の語りが日曜法を画定するしるしとなる。2023年10月7日、そのろばは再び打ったが、それは霊的な現代の栄光の地ではなかった。打たれたのは文字通りの古代の栄光の地であり、こうしてバラムとそのろばは二度目の対峙に入った。

しかし、主の使いは、ぶどう畑の間の道に立っていた。この側にもあの側にも垣があった。雌ろばは主の使いを見ると、身を垣に押しつけ、バラムの足を垣に挟みつけたので、彼は再びその雌ろばを打った。民数記22章24、25節

古代イスラエルのぶどう園は、ラオデキア的セブンスデー・アドベンチズムのぶどう園を例証する。両者とも、神の律法の委託を受けた契約の民であり、その律法は「垣」として象徴され、ぶどう園を構成する要素の一つである。

わがぶどう園に、わたしが為し得て、しかもまだ為していないことが、なおあっただろうか。それなのに、わたしが良いぶどうを結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。今や、わたしがわがぶどう園に対して何をしようとするかを告げよう。わたしはその垣を取り除き、食い荒らされるにまかせ、またその石垣を打ち壊し、踏みにじられるにまかせる。イザヤ書 5:4、5

古代の文字通りのイスラエルと現代の霊的イスラエルは、いずれも反逆し、彼らの聖なる責務を拒絶した。9/11から日曜法に至るまで、ある預言的な争点が「壁」によって象徴されている。その預言的争点とは、アメリカ合衆国憲法における政教分離の「壁」の破壊である。9/11にブッシュは愛国者法を実施したが、これは憲法を覆すうえでの大きな一歩であった。というのも、そこで憲法を導いてきた理念が逆転させられ、すなわち、有罪が証明されるまでは無罪とする英国法の原則に優先して、無罪が証明されるまでは有罪と主張するローマ法の原則が受け入れられたからである。

9/11から日曜法に至る期間には、「壁」に関する預言的言及が含まれている。イスラームがバラムの雌ろばのように壁を打ち壊すことは、憲法に内在する諸原則を覆すための誤導的な論理を提供するのは、イスラームという問題であることを示している。この預言的意味において、聖書における偽預言者であるイスラームは、「獣の像」の試練の時にアメリカ合衆国を欺くのであり、同様に、アメリカ合衆国という偽預言者は、世界における「獣の像」の試練の時に全世界を欺く。

2023年10月7日、イスラムのろばが古代の字義どおりの栄光の地を攻撃した。そして、真夜中の叫びの布告の前にろばが解き放たれるとき、イスラムは9/11にそうしたように、現代の霊的な栄光の地であるアメリカ合衆国を再び攻撃するであろう。バラムが二度目にろばを打つとき、それは第二の天使であり、そして第二の天使は、二つの垣を備えた「ぶどう畑の道」によって表されているように、常に二重化をもたらす。

主の使いはさらに進み、右にも左にもそれる道のない狭い場所に立った。雌ろばが主の使いを見たとき、雌ろばはバラムの下に伏した。そこでバラムの怒りは燃え上がり、彼は杖でその雌ろばを打った。主は雌ろばの口を開かれ、雌ろばはバラムに言った。「私はあなたに何をしたというので、この三度も私を打ったのか。」民数記 22:26-28

22節と23節を精査すると、ろばが初めて打たれるのは、実際には23節であることが明らかになる。

彼が行ったので、神の怒りは燃え立った。主の御使いは、彼に敵する者として道に立った。そのとき、彼はろばに乗っており、彼の二人の従者が彼と共にいた。

雌ろばは、主の御使いが手に抜き身の剣を持って道に立っているのを見たので、道をそれて畑に入った。そこで、バラムは雌ろばを打ち、道に戻らせようとした。民数記 22:22、23。

偽預言者となるようにとの要請を受け入れたバラムに対する神の怒りは、マタイによる福音書22章の終節において、些末な論難を仕掛けるユダヤ人たちとの対話をキリストが終えられたことに並行する。民数記22章23節はマタイによる福音書23章に符合し、同章24節と25節はマタイによる福音書24章および25章に符合する。同章26節、27節、28節は、マタイによる福音書26章、27章、28章に符合する。

マタイ23章は第一の天使、24章と25章は第二の天使、26章・27章・28章は第三の天使である。民数記22章では、23節が第一の天使、24節と25節が第二の天使、26節・27節・28節が第三の天使である。マタイは旧新両契約の民に語りかけており、民数記は、アメリカ合衆国において始まり、その後世界へと及ぶ日曜礼拝に対する神の懲罰の器としてのイスラームの役割を特定している。第三の打撃の後、すなわちろばが語ったとき、バラムは、いましがた起こったことを悟らされた。

そのとき、主はバラムの目を開かれ、彼は、手に抜き放った剣を携えて道に立っている主の使いを見た。彼は頭を垂れ、顔を地に伏せてひれ伏した。主の使いは彼に言った、「なにゆえおまえはこの三度、おまえの雌ろばを打ったのか。見よ、おまえの道がわたしの前に曲がっているゆえ、わたしはおまえに立ちはだかるために出て来たのだ。その雌ろばはわたしを見、この三度わたしを避けて身を翻した。もし彼女がわたしを避けて身を翻さなかったなら、いまやまことに、わたしはおまえを打ち殺し、彼女は生かしておいたであろう。」バラムは主の使いに言った、「私は罪を犯しました。あなたが私に敵して道に立っておられるとは知りませんでした。今、もしあなたの御心にかなわないことなら、私は引き返します。」民数記 22:31-34

バラムは偽預言者を表しており、その偽預言者とは、日曜法の時に竜のように語るアメリカ合衆国である。日曜法の時、彼に光が与えられるとき、彼はなおバビロンのうちにいる者たちを代表し、彼らはそのとき日曜法の問題に目を開かれ、バビロンから出るように召し出される。

まず、ミラーが種なしパンのメッセージを教える五日間があり、次いで、「三十」によって表されている、キリストがご自身の祭司たちを教える三十日間が続く。それが「ろばを解き放つこと」のラッパの警告のメッセージへと導き、そこから五日を隔てて旗印が掲げられ、さらに五日を隔てて十人の乙女のたとえにおける戸が閉じられ、さらに五日を隔ててペンテコステ的な日曜法に至る。そしてそれが仮庵の祭りの七日間の期間を到来させる。これは日曜法の危機のさなかにおける後の雨の完全な注ぎであり、というのも、その期間の試験は第七日をめぐるものだからである。

五という数は、賢愚いずれの乙女をも象徴する。三十という数は祭司を象徴し、そのことは「レビ記」という名称が指し示すとおりである。七という数は安息日の象徴である。レビ記二十三章は、安息日の試練の時における、祭司、マラキ書三章のレビ人、賢い乙女たち、そして十四万四千人の歴史を示している。

これらの内容は次回の記事で続けます。